2015年6月11日木曜日

佐藤雅美 VS テレビマンユニオン 著作権侵害事件(一審)準備書面(2)-翻案権侵害の判断基準の交通整理-(2013.12.13)

 翻案権侵害の判断基準について、代理人にとって集大成の書面。->PDF版

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平成25年(ワ)第15362号 著作権侵害差止等請求事件     
原  告  佐藤 雅美
被  告  株式会社 テレビマンユニオン 

原告準備書面 (2)
――翻案権侵害の判断基準の交通整理――
2013年12月13日
 東京地方裁判所民事第40部3A係  御中

原告訴訟代理人 弁護士  柳原 敏夫

目 次
第1、はじめに――6つの論点―                   
第2、総論(著作権侵害)における事実論と法律論           
第3、各論1(翻案権侵害)における事実論と法律論
第4、各論2(テレビ化権侵害)における事実論と法律論      

 現代においても、本件著作権侵害のメインテーマである翻案権侵害の判断基準は依然ゴチャゴチャしていて明快ではないように思われる。その最大の原因は、約一世紀前、有体物全盛期の時代に私法解釈の礎石を築いた我妻栄の「私法の方法論に関する一考察」(1926年)に匹敵する、著作物など無体物に関する「私法の方法論に関する一考察」が今なお存在していないことにある。
 本書面は、「著作権法の方法論に関する一考察」の穴を埋めるためのささやかな試みであり、本件の著作権侵害(翻案権侵害)の判断はいかになされるべきか、についての交通整理である。

第1、     はじめに――6つの論点――
1、結論
 結論として、本件事案で翻案権侵害の判断を適正におこなうためには6つの論点をクリアする必要がある。すなわち、以下の表のとおり、総論から始まり、各論1、各論2を辿る中で、それぞれ事実論と法律論の両方について問題点を吟味検討する必要があり、結局、判断というゴールに至るまで次の6つの論点を吟味しクリアすることになる。

事実論
法律論
総論
(著作権侵害)
芸術論(芸術における創作性とは何か)
創作的表現とは何か
各論1
(翻案権侵害)
芸術論(翻案における創作性とは何か)
(1)、翻案とは何か
(2)、創作的な内面形式とは何か
各論2
(テレビ化権侵害)
芸術論(ストーリーにおける創作性とは何か)
創作的なストーリーとは何か

2、著作権法における「事実論」と「法律論」
有体物が全盛期だった約一世紀前に、民法の大学者我妻栄は私法の解釈の原理について、次のとおり明らかにした。
法律とは、法律が対象とすべき社会現象に対して、一定の価値判断に基づき、具体的な法律構成の形を取って判断を下すことであり、それゆえ、学者・法律家の任務とは次のように言うことができる。
① 。法律が対象とすべき社会現象に対し、科学的、客観的な認識を行なうこと。
② 。そのように認識された社会現象に関して法的評価を下すに際して、最も相応しい価値基準を吟味・選択すること。
③ .そのように認識・評価された社会現象に関して、最も相応しい法律構成を吟味・選択すること。                               (「私法の方法論に関する一考察」1926年)

 この原理は言うまでもなく著作物などの無体物にも妥当する。つまりこれは著作権法の解釈の原理でもある。
 そして、このうち①が事実認定の次元の「事実論」であり、②と③が、①の事実認定を踏まえた法的な評価や法的な構成に関する「法律論」である。
 日常見落としがちであるが、本来、我々が議論する法律問題とは、基本的にすべて、この「事実論」と「法律論」の両方にまたがった問題のことである。かつて、混迷を極めた民法の「因果関係」が、平井宜雄の画期的な因果関係論、つまり事実的因果関係と法的因果関係の整理により決着を見たことはその典型である。しかし、或る意味で、これは我妻栄の「私法の方法論に関する一考察」という原点に戻っただけのことである。その意味で、この教えは、現在なお混迷を極める法律問題の解決のための鍵である。すなわち、依然、混迷の中にある翻案権侵害における「創作的な表現」を解決する鍵もここにある。我々もまた、我妻栄の原点に立ち返り「事実論」と「法律論」の両方にわたって吟味する必要がある。

3、著作権法における著作権侵害と翻案権侵害とテレビ化権侵害
 著作権法はもともと「創作的表現」を保護するものであるが、これを本件の具体的な紛争に当てはめて解決するためには次の3つの次元の問題があることを理解しておく必要がある。
①著作権:複製権をはじめ多種多様な権利の束としての著作権の侵害における「創作的表現」の問題
②翻案権:著作権の一支分権である翻案権の侵害における「創作的表現」の問題
③テレビ化権[1]:多種多様な形態がある翻案権の一分野である小説等のテレビ化権の侵害における「創作的表現」の問題

 さしあたり、ここでは①を総論、②を各論1、③を各論2と呼ぶことにする。各論を1と2に分けた理由は、一口に翻案といっても、そこには凡そ「著作物を現状のまま利用するのではなく、著作物をもとにして新たな著作物を作る場合」全てを総称しているのであって、翻案権には小説の翻訳権から楽曲の編曲権、図画の変形権、小説の脚色権、映画化権などありとあらゆる形態が含まれているため、この翻案行為の多様性に応じてこれを具体化・類型化する必要があるからである。
第2、総論(著作権侵害)における事実論と法律論
1、はじめに
著作権侵害全般における「創作的表現」の問題を、事実論と法律論の2つの次元から眺めた場合、次の問題がある。その問題と検討結果について、以下、順番にみていく。

事実論
法律論
総論
(著作権侵害)

芸術論(芸術における創作性とは何か)

→検討結果
「素材」の選択・組み合わせである。
創作的表現とは何か
→検討結果
①.「思想・アイデア」や「事実」自体は「表現」に該当せず、保護されない。
②.同様の「創作的表現」が先行著作物に存在し、参考にした場合、「創作性」は認められない。

2、事実論
(1)、芸術論(芸術における創作性とは何か)
 著作権法上の著作物は芸術作品に限定される訳ではないが、芸術作品が著作権法の中核を占めてきた歴史(著作権法の所管官庁は文化庁である)をかんがみれば、芸術作品における創作性が法律論としての「創作的表現」を考える上での基礎になるのは間違いない。
 芸術作品一般について創作性の本質を考えたとき、それを一言で言い表すと「素材の選択・組み合わせ」である。なぜなら、創造性とは黒澤明が喝破した通りもともと「無から創造できるはずがない。」[2] そうだとしたら、では、創造性はいかにして可能か。それは、浅田彰が次に指摘した通りである。
「今や普通の芸術がそうですからね。ゼロからのクリエーションというのは神話にすぎないんで、つまるところはセレクション(選択)とコンビネーション(組み合わせ)でしょう」(甲22「フラクタルの世界」138頁。宇敷重広との対談)。
(2)、小説(言語著作物)
 同じく、作家の後藤明生も自分の言葉・自分の文章、すなわち創作性について次のように指摘する。
《ここで断っておきたいのは「自分の言葉」というものはけっして作家が自分勝手に作り出した「新語」や「珍語」のことではない。「新語」や「珍語」を新発明するということではない。これは当り前のようで、実はよく誤解されるようであるが、小説の言葉というものは、どの国語辞典にでも載っている、ふつうの日本語以外のものではない。
 その、ふつうの日本語のどれを選び出して、どう組み合わせるか、ということである。その選び方がその小説家の「自分の言葉」ということであり、その組み合わせ方がその小説家の「自分の文章」ということなのである。》(甲23「小説・いかに読み、いかに書くか」102頁)
 つまり、自分の言葉・自分の文章すなわち創作性とは、言葉という素材の選択・・組み合わせ」にある。これは音楽でも絵画でも同様である。
(3)、音楽
 モーツアルト晩年の傑作、交響曲41番(ジュピター)の第4楽章は冒頭から有名な次の旋律「ジュピター音型」(ドレファミの4音符)が登場する。


 しかし、この旋律を構成する4つの音符は言うまでもなくモーツアルトが発明したものでなく、すべて万人に解放されたありふれたもののひとつである。モーツアルトの独創性は、それらのありふれた音符の中から特定の音符を選択し、組み合わせた、そのやり方にある。
(4)、絵画
以下は、「色彩の魔術師」といわれた画家アンリ・マティスの切り絵の代表作とされる絵画(《王の悲しみ》1952年。パリ国立近代美術館)である。


 この絵でマティスが使用した色は彼が新発明した色ではなく、誰もが知っているありふれた色である。しかし、誰もが知っている色の中から、どの色をどこに使うのかという色の選択と組み合わせが傑出していたことがマティスの絵画の創作性を証明している。
(5)、小括
以上、事実論(芸術論)においては、創作性の本質とは言葉とか音とか色とかいう「素材の選択とその組み合わせ方」にあり、それ以上でもそれ以下でもない。これが無からは決して生まれることのない創作性というものの姿である。従って、創作性が豊かであるとか乏しいとかは、結局のところ、「素材の選択とその組み合わせ方」のユニークさの点にかかっている。

3、法律論
 著作権法が著作物の「創作的表現」を保護するとしたとき、それは法律論として何を意味するか。原告準備書面(1)でも指摘した通り、次のことである。
  ①.著作権法が保護するのは、著作物のうちの「表現方法」である。従って、これに該当しない「表現内容」は保護されない。つまり、一方で、史実などの「事実」自体、他方で、作者の「思想・アイデア」は保護の対象とならない(以下の原告準備書面(1)3頁の図参照)。
              図1



②. 著作権法が保護するのはすべての「表現方法」ではなく、あくまでも作者自身が作成した「創作的な表現方法」である。従って、他人の著作物を適法引用した部分は保護されない。また、たとえ適法引用の形式でなくても、先行する著作物の中に、それと同様の「創作的な表現方法」が存在し、作者がそれを参考にしたと認められる場合には、もはや「作者自身が作成した『創作的な表現方法』」とは認められず、保護されない。

第3、各論1(翻案権侵害)における事実論と法律論
1、はじめに
 翻案権侵害全般における「創作的表現」の問題を、事実論と法律論の2つの次元から検討する。但し、ここではその問題と検討結果について、順番を入れ替えて法律論から先にみていく。なぜなら、そもそも法律論における「翻案とは何か」の意味が不明なため、この点を明確にしない限り、その前提・基礎となる事実論の「翻案とは何か」の議論をいくらしても不毛となる恐れがあるからである。

事実論
法律論
各論1
(翻案権侵害)
芸術論(翻案における創作性とは何か)

→検討結果
その典型は「音楽の演奏」
(1)、翻案とは何か
→定義がない。
(2)、江差追分最高裁判決の「翻案」と「内面形式」について
→両者は矛盾しない。
(3)、創作的な内面形式とは何か

2、法律論
(1)、翻案とは何か――問題の所在と翻案権制度導入の歴史的経緯――
著作権の一支分権である翻案権の侵害とは何かの問題を考えていくと、なぜか議論がすこぶる分かりにくい。その分かりにくさの最大の原因はそもそも著作権法に「翻案」の定義がないことである。複製はきちんと定義されているのに(2条1項15号)、複製権と並んで著作権の2大柱ともいうべき翻案権については今なお定義すらないままである。そのため、翻案概念をめぐって、各人各様のイメージが乱立しても当然である。
 そこでまず、立法者はどう考えて著作権法に翻案権制度を導入するに至ったのか、その歴史的経緯を確認しておく必要がある。それは以下の通りである。
《他人の著作物をそのまま複製するということは、実際には犯罪になるので、正面から行われはしなかったが、これをもぐって、原著作物の全部または一部を改作して、翻案して利用されることを防がねばならないとされた》(中川善之助ほか「改訂著作権」128頁)からである。つまり、《翻案という美名のもとに他人の著作物が僭用されることが横行し、その防止》(同頁)が必要とされたから、言い換えれば、翻案権制度は(いわゆるデッドコピーを本質とする)複製権による保護の限界をカバーするものとして登場したのである。
(2)、翻案権が保護する対象
従って、もともと複製権が著作物の外面的表現形式が同一の場合を保護するものである以上、その限界をカバーするものとして登場した翻案権は、複製権の保護対象である外面的表現形式でカバーできない領域をフォローし、と同時に思想・アイデアの領域はこれは表現の自由を確保する上で不可欠であったのでこれを除外するものとして、その結果、内面的表現形式という領域において表現が同一の場合を保護しようとしたものである[3](7頁の図1を参照)。
(3)、小括
以上の通り、複製の脱法行為として登場した翻案の歴史的経緯にかんがみれば、翻案とは、
①.一方で、先行する著作物に依拠して作成されたが、
②.他方で、デッドコピー(丸写し)を本質とする複製ではなく、あくまでも自らの創作性を加味している。
③.しかし、完成した作品には依拠した著作物の「内面的表現形式」が借用されている。
という特徴を有するものである。
(4)、江差追分事件最高裁判決が判示した「翻案」について
 これに対し、最高裁は、「翻案」の定義規定のない著作権法の穴を埋めるために、江差追分事件で、言語の著作物について翻案を次のように定義し、その中の「著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することができる」(以下、「本質的な特徴の感得」論という)かどうかを翻案権侵害の重要なメルクマール(指標)として用い、当該事件を判断した。
『言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。』
しかし、この「本質的な特徴の感得」論は、
第1に、パロディ事件第一次最高裁裁判決(昭和55年3月28日。以下、パロディ事件最高裁判決と略称)の誤読に基づく概念であること、
第2に、「公序良俗」「権利の濫用」「過失」などの一般条項と同じく、この概念だけでは具体的な事件の具体的な解決を図る判断基準たり得ないこと
という問題点がある。すなわち、
ア、パロディ事件第一次最高裁裁判決の誤読について(結論)
 翻案権侵害の判断基準として「本質的な特徴の感得」論を採用したのは江差追分事件の最高裁判決が最初ではない。同事件の一審及び二審判決が既にこれを採用していた。一審判決は、みずから判決の中で(203頁末行)、これがパロディ事件最高裁判決の中で判示した論理を参考にし採用したものであることを明らかにしていた。
 しかし、結論を先に述べると、そもそも「本質的な特徴の感得」論はパロディ事件最高裁判決の中で翻案権侵害の判断基準として示されたものではなく、著作権とは別の著作者人格権の1つである同一性保持権の侵害を判断する上で、一見、改変があるように見えても同一性保持権の侵害が例外的に不成立になる場合(つまり抗弁事実)の判断基準として《他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合》という「本質的な特徴の感得」論を用いられたのである。
 これを江差追分事件の一審、二審、及び最高裁判決のように翻案権侵害の請求原因事実である「著作物の同一性」の判断基準として用いるのは誤用というほかない。
以下、その理由を詳述する。

(ア)、パロディ事件最高裁判決の構成
 パロディ事件とは下の右の写真が左の写真の同一性保持権の侵害にあたるかが争われた事案であるが、
               原告写真                               被告写真


パロディ事件最高裁判決は次のような構成をとっている。
①.「適法引用」の要件の検討(判例時報967号47頁1段目22行目~2段目6行目)
 旧法30条1項第二の「適法引用」の要件として、法18条3項の同一性保持権の侵害がないことが挙げられる(しかし、既にここに最高裁判決の法律構成上の間違いがある。なぜなら、「適法引用」というのは、あくまでも財産権としての著作権の侵害に対する抗弁でしかなく、財産権とはレベルの異なる著作者人格権の同一性保持権の侵害については、抗弁であれ何であれ、「適法引用」は取り上げるに値しない事柄だから)。
②.同一性保持権の侵害の成否についての検討(同頁2段目7行目~30行目)
 両作品を対比してみると、本件モンタージュ写真は、本件写真の一部を切除し、これに新たにスノータイヤの写真を合成し、これを白黒の写真にした点において、本件写真に改変を加えて利用したものであると評価できる。つまり、同一性保持権の侵害の「改変」に該当する。
③.「改変」の結果生じた事態についての検討(同頁2段目31行目~4段目3行目)
ⅰ.改変の結果、外面的表現形式はもはや元の本件写真と同一ではなくなった。また、スノータイヤを付加したことにより、タイヤと本件写真部分とによって新たに、本件写真とは別個の思想感情を表現するにいたったと見ることができるかもしれない。
ⅱ.しかし、かりにそうだしても、なお、本件モンタージュ写真から本件写真の本質的な特徴自体を直接感得することができる。
ⅲ.従って、被上告人の上記利用行為は、上告人の写真の同一性保持権を侵害する改変にあたる。

(イ)、パロディ事件最高裁判決の構成が意味するところ
 本来なら、同一性保持権の侵害の「改変」を判断するのであれば、他人の著作物に手を加えて修正・変更したことさえ認定できればそれで足りる(前記②の検討)。それなのに、最高裁は、わざわざ前記③の検討にまで踏み込んだ。それはなぜなのか。何を意味するのか。
 それは、他人の著作物に依拠して作品を制作する場合、その制作の態様が、たとえばベラスケス晩年の大作「メニナス」とマネの代表作「草上の昼食」の絵を元にして描いたピカソの絵「ラス・メニナス(ベラスケスによる)」(別紙1)と「草上の昼食(マネによる)」(別紙2)のように、通常の「改変」の域を越え、他人の著作物が自分の作品の 「素材」にまで消化されてしまうような場合が時としてあることを踏まえ、そのような場合にはたとえ他人の著作物を下敷きにしようとも、もはや同一性保持権の侵害にならないから、「パロディ」の正当性が真正面から争われた当該事件がそのような場合に該当しないかどうか、を抗弁事実として吟味したためである。
 その意味で、これは、同一性保持権の侵害に関する請求原因事実を認定した後、「他人の著作物を素材にまで消化した」という抗弁事実が成立するかどうかについて吟味したものである。そして、この「他人の著作物を素材にまで消化した」というのは、元の著作物が単なる素材にまで消化されてしまい、もはや元の著作物がその個性的な特徴を失ってしまったような場合であるから、その判断基準として、
「元の著作物の表現形式上の本質的な特徴自体を、新たな著作物において直接感得できるかどうか」を採用したのである。これがまさしく本来の「本質的な特徴の感得」論にほかならない。
 そのことは、パロディ事件最高裁判決が、本件は「著作者人格権を侵害するものである」と結論を出したあとにおいて、やや弁解がましく、自己の論旨を次のように釈明していることからも明らかである。

《 なお,自己の著作物を創作するにあたり,他人の著作物を素材として利用することは勿論許されないことではないが,右他人の許諾なくして利用をすることが許されるのは,他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合に限られるのであり,したがって,上告人の同意がない限り,本件モンタージュ写真の作成にあたりなされた本件写真の前記改変 利用をもって正当とすることはできないし,また,例えば,本件写真部分とスノータイヤの写真とを合成した奇抜な表現形式の点に着目して本件モンタージュ写 真に創作性を肯定し,本件モンタージュ写真を一個の著作物であるとみることができるとしても,本件モンタージュ写真のなかに本件写真の表現形式における本 質的な特徴を直接感得することができること前記のとおりである以上,本件モンタージュ写真は本件写真をその表現形式に改変を加えて利用するものであって, 本件写真の同一性を害するものであるとするに妨げないものである。》(判例時報967号47頁4段目終りから7行目以下。アンダーラインは原告代理人による)

(ウ)、小括
 以上から、次のように言うことができる。
 パロディ事件最高裁判決が「本質的な特徴の感得」論を採用したのは、あくまでも、同一性保持権の侵害である「改変」に関する請求原因事実が認められた場合、これに対する抗弁事実である「他人の著作物を素材にまで消化した」ケースに該当するかどうかを判断するための基準として用いられたものである。だから、これは、もともと翻案権侵害の判断基準とは直接には縁もゆかりもない概念である。約一世紀前に我妻栄は、「私法の方法論に関する一考察」の中で、私法解釈の3つの課題の最後として、次のことを指摘した。
③.そのように認識・評価された社会現象に関して、最も相応しい法律構成を吟味・選択すること。
この意味で、翻案権侵害が真正面から争われた江差追分事件において、同一性保持権侵害の判断基準をいきなり翻案権侵害の判断基準に転用するのは「社会現象に関して、最も相応しい法律構成」とは到底言えず、失当というほかない。
 その上、江差追分事件において使われた「本質的な特徴の感得」論は、翻案権侵害に関する要件事実である「両作品の類似性」の判断基準としても実際上機能していないことも次に詳述する通りである。
(5)、具体的な事件の具体的な解決を図る判断基準たり得ないこと
 江差追分事件の三審の裁判所はいずれも同一の「本質的な特徴の感得」論を採用した。にもかかわらず、最高裁判決は一審・二審判決と正反対の結論を引き出した。この事実は、「本質的な特徴の感得」論という概念が翻案権侵害の具体的な事件の具体的な解決を図る判断基準として十分機能していないかを雄弁に物語る。
 すなわち、「本質的な特徴の感得」論という概念はその抽象性からして「公序良俗」「権利の濫用」「過失」などの一般条項と変わらず、ひとつ間違うと、裁判官の胸三寸で判断がいかようにもなる恐れがある。従って、もし翻案権侵害において「本質的な特徴の感得」論という概念をなお維持するのであれば、次の2つの手当てが不可欠である。
①.同一性保持権侵害における「本質的特徴」論との区別
 翻案権侵害における「本質的特徴」論と同一性保持権侵害におけるそれとがゴッチャにならないために、2つの概念を区別すべきである。例えば、同一性保持権侵害における「本質的特徴」論のことを「本質的特徴」論A、翻案権侵害における「本質的特徴」論のことを「本質的特徴」論Bとでも命名して、2つの混同を回避すべきである。
②.翻案権侵害における「本質的特徴」論の類型化
 「公序良俗」「権利の濫用」「過失」などの一般条項における課題と同様、今のままでは抽象的で空虚な内容しかない「本質的特徴」論を、具体的なケースの分析を通じて、現実の紛争に対して具体的な解決を引き出すに足るだけの判断基準として類型化していくことである。それを実行したのが本件の訴状である。、すなわち、原告小説のシークエンスについて、その創作的なストーリーという「創作的な内面的表現形式」に即して、その中身を吟味検討することである。

(6)、創作的な内面形式とは何か
 これは著作権全般における「創作的な表現形式とは何か」と基本的に同型である。すなわち、
翻案権について著作権法が保護するのは、著作物のうちの「内面的表現方法」である。従って、これに該当しない「表現内容」は保護されない。つまり、一方で、史実などの「事実」自体、他方で、作者の「思想・アイデア」は保護の対象とならない(7頁の図1参照)。
著作権法が保護するのは「内面的表現方法」のすべてではなく、あくまでも作者自身が作成した「創作的な内面的表現方法」の部分である。従って、先行する著作物の中に、それと同様の「創作的な内面的表現方法」が存在し、作者がそれを参考にしたと認められる場合には、もはや「作者自身が作成した『創作的な内面的表現方法』」とは認められず、保護されない。

(7)、最後に
次に、事実論に戻って、では、このような特徴を有する芸術活動の典型とは何か。それは音楽の演奏である。なぜなら、演奏家とは他人が作曲した楽曲を再現して演奏するものであるが、だからといって演奏は楽譜をデッドコピーのように機械的に再現できるものではなく、あくまでも演奏家としての自らの個性を発揮せざるを得ないものだからである。以下、これについて詳述する。

2、事実論
(1)、芸術論(翻案における創作性とは何か)
 前述の通り、芸術活動の典型的な翻案活動とは、音楽の演奏である。これがどのような本質を有するか、音楽に造詣の深かった政治思想史専攻の丸山真男の次の言葉を紹介する。
《その意味で思 想史家の仕事は、音楽における演奏家の仕事と似ているのではないでしょうか。音楽は通常、再現芸術であります。その点で美術や文学と非常に異なった特色が ある。つまり絵画ならば、作品というものにわれわれが直接当面することができます。ところが昔楽となりますと、われわれがただ楽譜というものに直面してみても、そこから感興を得られるようなものではない。少なくも普通はそうではない。演奏を通じてでなければ、作品はその芸術的な意味というものをわれわれに 開陳してはくれません。ですから演奏家、いわば再現芸術家としての演奏家――管弦楽の指揮者も当然に含まれます――というものは、作曲者ないしは画家、文学者と違ってまったく自由に創造するということはできない。気まま勝手にファンタジーを飛翔させることはできません。彼らは彼らの演奏しようとする楽譜に基本的に制約されます。つまり楽譜の解釈を通じてその作曲者の魂を再現しなければいけない。そうして解釈をするには、その作品の形式的な構造とか、これに先行する形式あるいはそれが受け継いだ形式、その中に盛られているイデー、あるいはその作品の時代的な背景といったものを無視することはできません。その意味で、どういう作曲者のどういう曲を演奏するのか、という、演奏の対象に拘束されております。けれども、さればといって演奏家にとっては、少なくとも芸術家としての演奏家にとっては、けっしてたんに楽譜を機械的に演奏に反映させること、楽譜を機械的に再現することが問題なのではない。そういう意味における楽譜の「客観的な」解釈というようなものは事実上ありえません。演奏が芸術的であるためには、必然に自分の責任による創造という契機を含みます。しかし それは自分で勝手に創造するのではない。作曲家の作曲が第一次的な創造であるとすれば、演奏家の仕事はいわば追創造であります。あとから創造する-ナッハ シェップフェン(nachschÖpfen)なのです。これと同じように思想史家の仕事というのは思想の純粋なクリエーションではありません。いわば二重創造であります。》(「思想史の考え方について」〈丸山真男集第九巻〉)

(2)、小括
 丸山真男は、思想史家の仕事を、第一次的な創造である思想家の仕事に対して、追創造=あとから創造するという意味でいわば第二次的な創造であると位置づけ、それはさながら 《作曲家の作曲が第一次的な創造であるとすれば、演奏家の仕事はいわば追創造であ》るのに対応していると言う。ここから、芸術における翻案とは「再現芸術であり、なおかつ追創造である」という2つ要素を備えているものということができる。


第4、各論2(テレビ化権侵害)における事実論と法律論
1、はじめに
翻案権のうちここでは小説などを原作としてテレビ番組を制作する、いわゆるテレビ化権侵害における「創作的表現」の問題を、事実論と法律論の2つの次元から検討すると、次の問題がある。その問題と検討結果について、以下、順番にみていく。

事実論
法律論
各論2
(テレビ化権侵害)
芸術論(ストーリーにおける創作性とは何か)

→検討結果
出来事や事件という「素材の選択と組み合わせ方」

創作的なストーリーとは何か。
→検討結果
①.「思想・アイデア」や「事実」自体は「ストーリー」に該当せず、保護されない。
②.同様の「創作的なストーリー」が先行著作物に存在し、参考にした場合、「創作性」は認められない。


2、事実論
(1)、芸術論(ストーリーにおける創作性とは何か)
 5頁以下で前述したとおり、芸術一般における創作性の本質とは、言葉や音や色といった「素材の選択と組み合わせ方」にある。これはストーリーにおける創作性においても基本的に変わらない。
 「東京物語」「晩春」など小津安二郎の数々の名作の脚本を手がけた脚本家野田高梧が書いた我が国の代表的なシナリオ解説書『シナリオ構造論』(甲17の3)で、筋・ストーリーについて、「ストーリー(筋)」という章で次のように言っている。
《現実生活の順序をそのまま何らの取捨選択も加えず、論理的な調整もせずに、ただありのままに写しただけでは物語は成り立つものではない。
 従って、一つの物語が形成されるためには、第一にその物語の表現に適したいろいろな素材が選ばれること、次にその選択された素材の各々が主題によって調整され、適宜に有機的な因果関係を保って論理的な系列のなかに置かれること、これが必要である。》(甲17の3。122頁4行目以下。アンダーラインは原告代理人による)》
 すなわち、ストーリーもまた、第1に出来事や事件という素材の選択の仕方、第2に、選択された素材の組み合わせ方に、つまり「素材の選択と組み合わせ方」にストーリーの創作性の本質がある。ストーリーの創作性を評価するにあたっては、出来事や事件という「素材」自体、言葉や音や色といった他の素材と同様、誰もが知っているありふれたものであって全く構わないのである。
(2)、小括
 以上、ストーリーにおける創作性とは何かについての事実論(芸術論)においても、芸術一般における創作性の本質が言葉や音や色といった「素材の選択と組み合わせ方」にあるのと同様、出来事や事件といった「素材の選択と組み合わせ方」にある。出来事や事件といった素材自体のユニークさはストーリーの創作性における本質とは無縁である。

3、法律論
(1)、ストーリーとは何か
 例えば、加戸守行著「著作権法逐条講義」において
「著作物の内面形式(‥‥たとえばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)」(新版176頁下から9行目以下)
「翻案権は、小説のドラマ化、シナリオの映画化といった代表的例示のように、基本となる原作の筋・仕組み・主たる構成などの内面形式を母体として派生的著作物を作成する行為を規制するものでして」(同213頁下から10行目以下)
という風に使われる「ストーリー」「筋」とは芸術論におけるストーリー・筋の意味と基本的に変わらない。
 すなわち、翻案権侵害におけるストーリー・筋とは、出来事や事件という素材が何らかの有機的な連絡(因果関係)で結ばれていること、その素材の選択と組み合わせ方のユニークさに、ストーリー・筋の創作性の本質がある。素材自体のユニークさはストーリー・筋における本質的要素とは無縁であり、吟味する意味がない。

(2)、創作的なストーリーとは何か
 これは翻案権における「創作的な内面的表現形式とは何か」と基本的に同型である。すなわち、
①.小説のテレビ化権(ここではストーリーの無断使用を問題にする)について著作権法が保護するのは、著作物のうちの「ストーリーという内面的表現方法」である。従って、これに該当しない「表現内容」は保護されない。つまり、一方で、史実などの「事実」自体、他方で、作者の「思想・アイデア」は保護の対象とならない(7頁の図参照)。
 従って、言うまでもなく、原告は本件翻案権侵害の主張において、史実などの「事実」自体も作者の「思想・アイデア」も一切問題にしていない。
②.著作権法が保護するのは「ストーリーという内面的表現方法」のすべてではなく、あくまでも作者自身が作成した「創作的なストーリー」の部分である。従って、先行する著作物の中に、それと同様の「創作的なストーリー」が存在し、作者がそれを参考にしたと認められる場合には、もはや「作者自身が創作した『創作的なストーリー』」とは認められず、保護されない。
 むろん、本件において、原告自身が作成した「創作的なストーリー」の主張について、先行する著作物の中にそれと同様の「創作的なストーリー」が存在し、原作者がそれを参考にした事実が存在しないことは言うまでもない。

第5、最後に
 30歳の俊英我妻栄は、「私法の方法論に関する一考察」の最後をカントの「純粋理性批判」中の有名な言葉をもじって次のように締めくくった。
 法律学は、
「実現すべき理想の攻究」を伴わざる限り盲目であり、
「法律中心の実有的攻究」を伴わざる限り空虚であり、
「法律的構成」を伴わざる限り無力である。
 


 我々が物事を判断するとき真(認識)、善(倫理・法律)、美(芸術)の3つの異なる次元があることを明らかにしたのはカントである。これを芸術裁判の1つである芸術作品に関する著作権裁判に当てはめるとこうなる。
裁判所は、
まずは作品の適切な美的判断に向かうべきであり、
それを終えてのち初めて、作品の法的な判断に進むことができる。
その際、注意すべきことは法的な判断(法律論)を、美的判断(芸術論・事実論)をもって省略、代用、置きかえることはできないことである。或いは、たとえ美的判断に向かっても、それがおざなりな判断では、適切な法的判断の基礎が築かれないということである。このことを踏まえて、本書面を次の通り締めくくる。
 通常の裁判と比較し、芸術裁判の大きな特色は、裁判の対象が通常の事実認識(認識的判断)だけでは済まず、芸術裁判の対象である芸術作品を正しく把握するためには適正な美的判断が不可欠だということである。それが、古来、著作権事件のみならず著作権以外の様々な芸術裁判(「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件など)の審理を著しく困難なものにした[4]。しかし、裁判制度が芸術を法廷に持ち込むことを認める以上、「適正な美的判断」という課題は回避しようがない(それは、科学が法廷に持ち込まれる以上、「適正な認識的判断」という課題は回避しようがないのと同様である)。裁判所が適正な芸術裁判を実施し、文化の発展に寄与するためには、この厳格な適用が不可避である。
以上の芸術裁判における特色を標語的に言えば、次のようになる。
――美のことはまず美に聞け。それから、善の判断に進め、と。
                                    以 上 



[1] ここでは、小説などを原作としてテレビ番組を制作することを指している。
[2] 「誰かが言っていたと思うけど、創造というのは記憶ですね、自分の経験やいろんなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造できるはずがない。」(甲21)
[3] この意味で、内面的表現形式に着目して翻案権侵害の基準を考えるのが、翻案権制度の起源に照らしてみて最も適切である。実際、主だった学説・実務は殆どこの立場に立っている(加戸守行「著作権法逐条講義」六訂新版176頁。榛村専一著「著作権法」64頁。半田正夫著改第9版 「著作権法概説」84頁。秋吉稔弘ほか「著作権関係事件の研究」176頁9行目以下・292頁3行目以下)。
[4]悪徳の栄え事件の弁護人大野正男は「フィクションとしての裁判」の中で、被告人の澁澤龍彦も検察官も猥褻の有無をめぐって、途中から「永遠の水掛論」をやっている無力感、徒労感に襲われてしまったと、芸術裁判の困難さを率直に表明している。但し、それをどう克服すべきかは遂に示されぬままであった。

 
別紙2


2015年4月8日水曜日

プロフィール(法律家 柳原敏夫)




                          (C)1996 Naoyuki Kato

1951年新潟県長岡市生まれ。

1985年 NHK大河ドラマ「春の波涛」ドラマ化権侵害事件
→事件簿 
1988年 ゲームソフト「ドラクエⅢ」無断掲載事件
→事件簿(工事中)
1989年 映画「ハリマオ」ドラマ化権侵害事件

1991年 漫画「沈黙の艦隊」写真無断使用事件

1993年 「壁の世紀」著作権侵害事件
 →事件簿(工事中)
1993年 デズニー「百一匹ワンチャン」並行輸入著作権侵害事件

1993年 仏典「大蔵経」無断出版事件

1993年 漫画「タイガーマスク」無断続編作成事件
1993年 滝田ゆう「落語劇場」著作権侵害事件
 →事件簿(工事中)
1997年 小林正樹「東京裁判」氏名表示権侵害事件
→事件簿(工事中)
1998年 日本画家三谷一馬VS新橋玉木屋著作権侵害事件
→事件簿 
1999年 NHKドキュメンタリー「北の波涛」翻案権侵害事件
→事件簿 
1996年 ゲームソフト「ときめきメモリアル」無断改変事件
→事件簿(一審。二審)
2005年 第一次遺伝子組換えイネ野外実験の差止事件
→事件簿 
2007年 日本画家三谷一馬VS柏書房(株)著作権侵害事件
    日本画家三谷一馬VS日本ビーンズ(株)著作権侵害事件
→模写裁判--民事冤罪事件:それでもボクはコピーやっていない-- 2008年 劇作家鄭義信VS新宿梁山泊戯曲「それからの夏」「人魚伝説」著作権侵害事件
→事件簿 
2008年 イラストレーターやまざきあいこVS新座市長須田健治イラスト無断使用著作権侵害事件
→事件簿
2009年 物理学者槌田敦VS日本気象学会論文掲載拒否事件
→事件簿 
2009年 脚本家荒井晴彦VS小説家絲山秋子「やわらかい生活」事件
→事件簿 
2009年 ボランティア佐野安VS久喜市長田中暄二ほか写真著作権事件
→事件簿
2011年 ふくしま集団疎開裁判(仮処分)
2012年 第二次遺伝子組換えイネ野外実験の実験ノート情報公開事件
→事件簿 
2014年 子ども脱被ばく裁判(第二次ふくしま集団疎開裁判)
→事件簿
2016年 東大教授柳田辰雄VS東京大学「学問の自由侵害」事件

2015年4月5日日曜日

「やわらかい生活」裁判一審判決の感想(2010.9015)

自ら締結した契約を履行せず、脚本家の著作権を不当に抑圧する契約違反の事態を是正し、脚本家の本来の権利状態を回復するための脚本家たちの「インティファーダー」の闘いの記録です。


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一審判決の感想

1、狐につままれた判決の記事
2010年9月10日に「やわらかい生活」出版妨害差止の裁判の一審判決があった。判決は、「出版妨害をするな」「違法な出版拒否により被った損害の賠償をせよ」という原告らの請求を全て退けた。朝日新聞は次のように報道した。
≪【脚本の著作権、原作者にも】‥‥裁判長は、脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもあり、出版を拒む権利があると判断した。≫
これだけ読むと、あたかも原告らは「脚本の著作権は脚本家だけにあり、原作者にはない」と主張したが認められなかったみたいである。しかし、原告らはそんな途方もない主張をしたことは一度もない。1年前の提訴を報道した朝日新聞の次の記事を読めば明らかである。
≪訴状では、映画化もDVD化も認めながら脚本収録だけを拒否するのは、映画製作会社と原作の版元文芸春秋との契約にある「(2次利用について)一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない」との条項に反するとしており、10年秋発行の「’09年鑑代表シナリオ集」への掲載を求めている。≫
つまり、訴状によれば、原告らの主張は「原作者の出版拒否は原作使用契約の『一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない』という条項に違反する違法なもの」であった。これが原告らが裁判所に判断を求めた核心である。しかし、判決の記事を読んでもこの核心部分がどう裁かれたのかさっぱり分からない。この意味不明な記事は記者のせいだろうか。そうではない。記者は単に判決を忠実に要約しただけである。その結果、
訴状によれば、原告らの主張は「原作者の出版拒否は原作使用契約の『一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない』という条項に違反する違法なもの」であったのに、この問いかけに対する回答が、判決によれば、「脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもあり、出版を拒む権利がある」というものだったのである。
ここに今回の判決のエッセンスが集約されている。つまり裁判所は、原告らが求めた問いかけにイエスともノーとも答えず、単に黙殺した。そして、原告らも含め万人が認める「脚本の著作権は原作者にもある」を理由にして原告らの訴えを退けた。
 狐につままれたのは記事のためではなくて、判決のためである。

2、民事の裁判制度の目的から見た裁判所の姿
もともと民事の裁判制度とは何のためにあるのか?現実に発生する個人や社会の紛争を解決するためにある、つまり「紛争解決」が民事裁判の目的である。これが今日の通説である。本件の紛争とは言うまでもなく「原作者の不当な出版拒否により、脚本の発表の機会が奪われるのは脚本家にとって表現の自由の侵害ではないか」である。原告らは裁判で終始一貫、この紛争の解決を求めた。従って、民事裁判制度の目的からしても、裁判所には「脚本家の表現の自由の保障と原作者の著作権の保護との衝突・矛盾」という紛争を解決する責任がある。しかし、裁判所がやったことは原告らが提起した紛争にイエスともノーとも答えず、これを黙殺することだった。だから紛争はなにも解決していない。しかも、原告らは約9ヶ月間の裁判の間、もっぱらこの紛争の解明のために全力を尽くして審理に臨んだ。その間、裁判所から「紛争の解明のための原告らの取組みは必要ない」といった干渉は一切なかった。裁判所は審理の一部始終をずっと見守ってきたのである。にもかかわらず、判決ではこの問題に指一本触れようとしなかった。裁判所は審理の間、一体何をやってきたのか。これでは裁判放棄、任務放棄と言われてもしょうがない。

3、民事の裁判制度の目的から見た被告の姿
実は裁判放棄したのは裁判所だけではない。被告も同様だった。裁判で、原告らは被告に「なぜ、出版拒否をしたのか、その理由を明らかにせよ」と迫った。裁判前の交渉の中で、原告から理由の開示を求められては拒否し続けてきたからである。理由が明らかにならない限り、それが正当なものかどうかも判断できない。だから、原告の要求は当然のことだった。裁判所の手前もあって、被告はしぶしぶ、そして不明朗に理由を開示した。その際、不可解だったことは、被告は代理人作成の書面でその理由を主張しただけで、その主張を裏付ける証拠(それは原作者本人の陳述書である)を一切提出しなかったことである。民事の裁判の大原則は証拠裁判主義であり、証拠に基づかずに事実を認定することはできない。主張だけなら誰でも何とでも言える。それは証拠の裏付けがあって初めて意味をなす。だから、被告も出版拒否の理由を主張する以上、その裏付けとなる証拠を提出しなければ意味がない。そんなことは重々分かった上で、被告が証拠を最後まで提出しなかったということは、「脚本家の表現の自由の保障と原作者の著作権の保護との衝突・矛盾」という紛争と向かいあう気がなかったことを意味する。
民事裁判は原告が裁判の主題(解決すべき紛争)を設定する。しかし、ひとたび訴えられた以上、被告も設定された裁判の主題に対して、自己の信ずるところを主張・立証して結論を出すのが本来の被告の姿である。ましてや表現者であればなおのことである。しかし、本裁判の被告は表現者(小説家)でありながらそれをしなかった。裁判所と同様、被告もまた裁判の主題(解決すべき紛争)から逃亡した。それでは表現者失格と言われても仕方ない。

4、原作者の著作権と衝突する脚本家の権利とは
本件裁判で、被告が出版拒否をした真実の理由を明らかにしないことは原告側が予期していたことである。それは「脚本は活字として残したくない」(出版拒否の回答)や「そもそも、脚本を作成する側としては、原作著作権者と十分に協議して、納得を得たうえで進めていくのが大原則である。」(被告準備書面(4))に示されているように、もともと脚本家とは原作者の指示通りに制作するただのマシーンでしかなく、従って、その成果である脚本も原作者が生かすも殺すも自由にできる代物でしかないという信念が横たわっている。
しかし、被告はここでいかなる権利の衝突・対立が紛争になっているか、頭に描いたことがないように思える。被告は原作者として著作権を主張する。これに対し、脚本家は原作を単に複製利用する利用者とは違う。自ら執筆し創作した表現者である。従って、ここで原作者の著作権と衝突する権利とは脚本家の著作権だけにとどまらず表現の自由(出版する自由)もある。なぜなら、原作者の出版拒否によって奪われるのは著作権というよりむしろ脚本を発表する自由だからである。
ここで衝突する2つの権利を比較してみよう。原作者の著作権は、所有権などと並ぶ財産権の1つであるのに対し、脚本家の表現の自由とは基本的人権の中核をなす。基本的人権とは個人の尊厳に由来して国家に先立って承認された、最も根源的な、最も尊重されるべき最高の権利であるから、その中核をなす表現の自由がどれほど尊重されなければならないかは世界で一番古いヴァージニアの人権宣言の「言論出版の自由は、自由の有力なとりでのひとつであって、それを制限するものは、専制的政府といわなくてはならない」(1776年)からして明らかである。つまり、本件では財産権の1つである著作権と最も根源的で最も尊重されるべき最高の権利である表現の自由とが衝突しているのである。両者を天秤にかけて軽重を測ったら、どちらがより尊重されなければならないかは自明である。このことを被告も裁判所も全く分かっていない。「脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもある」のだから、脚本の出版を拒否できるのは当然であるとしか思っていないからである。このように表現の自由を軽々しく制限するものは専制的政府と言われても仕方ない。

5、映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ
 判決を報じた日経新聞は「映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ」と見出しを掲げた。これは以下の判決文を要約したものである。
≪本件映画のDVD化やテレビ放送の許諾についても,飽くまでも映像作品(映像化)に関するものであり,これを本件脚本の出版(活字化)の許諾と必ずしも同列に論じることはできない。≫
これは映像化と活字化は許諾の点で同列に扱えないから、映像化で許諾したからといって、活字化で拒否したことが不当になるわけではないと言うためものである。
しかし、この論理はおかしい。なぜなら、映画は原作(小説など)からじかに作成される訳でない。その間に脚本が介在して初めて映像化が可能となる。その意味で、脚本もまた映画の原作である。であれば、映画ですら利用が拒否されなかったのであれば、その映画の原作にあたる、それゆえ映画に比べより強い保護が与えられる脚本には映画と同等或いはそれ以上の保護が認められて然るべきである。つまり、映画で利用が拒否されなかったのであれば、脚本でも利用が拒否されないのが当然である。言い換えれば、映画(映像化)で許諾しておきながら、映画の原作である脚本(活字化)を拒否するのは原則として不当である。
判決は、せっかく「映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ」という映画と脚本の違いに着目しながら、その違いの意味を正しく理解しなかったため、そこから誤った結論を導いてしまった。

6、結論
以上から明らかな通り、判決は原告らが問うた問題に何一つ答えなかった。その意味で、判決の回答は白紙であり、本当の勝負はまだ何も決着がついていない。
原告らが問うた問題のエッセンスは、原告荒井晴彦氏が提訴にあたって述べた「自分の書いた脚本をどうして発表できないのか。理不尽さを感じる」に尽きている。これは脚本家である限り、問うことを止めるわけにはいかない脚本家の存在証明の問題である。脚本家がいる限りこの裁判も終わりがない。
(10.09.15 柳原敏夫)

2015年2月5日木曜日

著作権裁判( イラスト無断使用著作権侵害事件 )

自ら著作権侵害をしていながら平然としていられる理不尽な事態に対して、著作者(イラストレーター)の権利と人間の尊厳を回復する取り組みです。

               イラスト無断使用著作権侵害事件の詳細->こちら

                裁判が解決し、ちばてつやさんと祝勝会にて

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2013年3月25日月曜日

他人の著作物の映画への利用について(2013/03/25)

2通のメール、ありがとうございました。

作品を拝見させていただきました。

この問題に対する私のスタンスは単純でして、「くだらない作品だったら、著作権侵害あり。そうでなかったら、著作権侵害にならない、」。

で、鑑賞後の結論は、著作権侵害にならない、と(^_^)。

まあ、半分冗談みたいな結論ですが、その理由はおいおい述べるとして、最初、今回の問題の整理をします。

◆今回は、原則論として考えた場合、次の2つの問題があって、その2つがゴッチャになっている節があります。

1、卒業制作において他人の著作物の利用について
 これは自由にできます。教育の場合、例外的に、著作権法35条1項で 自由な利用が認められているからです。

-----------------------------
著作権法第35条第1項 学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

-----------------------------

2、しかし、プロの映像人を養成する映画学校は、他方で、プロとなった時に、どのよう な著作権処理をすべきかまで、教える必要があります。その意味で、
「プロの作品を作る」積りで、著作権処理のあり方を正しく実行する必要があります。

つまり、法律的に言えば、卒業制作で、他人の著作物は自由に利用してよく、許諾を得ないからといって、著作権侵害の責任は発生しません。
しかし、教育的見地からすれば、将来、プロとして作品を作る場合、どのようなときに、どのような著作権処理をすべきかを学ぶ必要があるという意味で、許諾の要否について、考えておく必要があります。

◆次に、原則論は以上でいいのですが、今回は、単純な卒業制作と言えない場面があります。それが、教育の最後に行う、卒業制作の上映会です。ここには無料とはいえ、一般人向けに上映する からで、このような場合には、上記の著作権法35条1項の「その授業の過程における使用に供することを目的とする場合」から逸脱すると思います。

その結果、上映会では著作権法の原則に戻ります。
では、すべて許諾を取らないといけないのか?ですが、取らなくてもよい場合があります。
それが、著作権法32条の「適法引用」に該当する場合です。

学術論文の場合が典型ですが、そこでは他人の著作物(論文や作品)を自由に引用できます。だとしたら、映像の卒業制作でも同様ではないか。
ここで、適法引用が成立するかどうかの判断が問われますが、最終的には、これは一種のコモン・センスで判断するしかありません。そのコモン・センスを導くキーワードは、作品の創造性の強さで す。なぜなら、文芸評論家の小林秀雄が、他人の作品を論評する「批評」の本質について、批評するとは他人の作品をダシに使って自己を語ることである(1930年「アシルと亀の子Ⅱ」)と喝破しましたが、引用が適法かどうかも同じことだからです。
創造性が強い作品なら、少々、荒っぽく、他人の作品を取り込んでいようが、これもまた素材として取り込んでいるだけ、つまり引用だと言えるでしょう。

今回の作品を観て、最初、オタクの映像かと思いましたが、途中から、そうでないことが分かり、藤沢嘘の絵からキャラが消えたとき、やった!と思いました(なぜ消えたのか、もっとストーカー的追及があったらもっとよかったですが)。

その意味で、この作品に登場する他人の著作物は、基本 的に、適法引用でカバーできるのではないかと思いました。

ただ、適法引用に関する裁判所の判断は、実は混迷しています。はっきり言って、裁判官もよく分かりません。グレーゾーンの宝庫みたいな領域だからです。参考までに、それに関する文献を添付します。

私が今でも、印象に残っているのは、メディアアーティストであるインゴ・ギュンターの作品を観たときです。
http://www.shift.jp.org/ja/archives/2001/08/ingo_gunther.html

かれは、他人の著作物を平気で使います、自分の主張やメッセージを全く使わずに全編、他人の著作物のパクリで出来ている作品すらあります。
しかし、彼の独自の編集により出来上がった作品は元の映像にはない独自のものが表現されています。ここまでインパクトが強いと、これを著作権侵害と言うことができないのではないかと感じます。そうした事例が、何が適法引用の判断基準なのか、その基準をぐらつかせています。
この混迷について、最近の文献を添付します。

最終的には、作家自身が、自分の信念で決めるしかないと思います。

これが表現の自由と著作権の保護との衝突の最終的な決着の仕方です。

これについ ての1頁の参考情報も添付します。

以上を参考にして、再度、以下の回答を構成していただけたら幸いです。

追伸
私にとってXさんの作品がインパクトがあったのは、○君のお母さんがが、彼が白血病から生還したことでした、それが絵に夢中になることと深い関係があるように思えてならなかったことでした。
それが、いま、福島の子どもたちの白血病への脅威と重なりました。
http://fukusima-sokai.blogspot.jp/2013/02/blog-post_5456.html

At 16:04 13/03/21 +0900, ×××× wrote:
> 柳原敏夫 様
>  
>  
> はじめまして。
> 私は日本映画学校映像ジャーナルゼミ3年の副担任をつとめております、××と申します。
>  
> この度は、卒業制作の著作権についてのお願いをお聞きしていただき、ありがとうございます。
>  
> 本日、監督の××から本編映像のDVDと関連資料を郵送させて頂きました。
> 念のため、データもお送り致します。
>  
> 郵送した物の中に、今回問い合わせのきたメール内容を同封いたしましたので、そちらをまずはご参照頂ければと思います。
>  
> そして、今回の問題としましては、そのメールに学校としてどのような内容の返事を書くのか、という事です。
>  
> 下記が私が素人ながら書いたメールの返信内容になりますので、そち らに修正などがございましたら、ご意見をお伺いできればと思っております。
>  
>  
> 何卒、よろしくお願い致します。

2003年6月4日水曜日

著作権のコモンセンス(はじめに)

はじめに

2003年6月4日

著作権法は、法律の中で最も意味不明な法律の一つで、ハッキリ言えば、これくらい魑魅魍魎とした、いかがわしい法律はありません。

その最大の理由は、著作権法の出自(生まれ)のことを終始一貫隠し続けている点にあります。世の中には著作権法はクリエーター(著作者)、アーティスト(実演家)の権利を守る法律だと思っている人がいますが、それは真っ赤なウソです。著作権法はそもそも芸術・文化とは直接何の関係もありません。著作権法が誕生したのは、活版印刷術というコンテンツの大量複製を可能にしたテクノロジーが出現したからです。活版印刷術以前から、世の中には芸術・文化はごまんと溢れていたけれど、誰ひとり一度も著作権法が必要だと声をあげた人はいませんでした。

くり返すと、著作権法は芸術・文化の創造者である著作者らを保護するために作られた法律ではなく、テクノロジー を保護するために作られた法律です。著作権法とは、著作物の大量複製を可能にしたテクノロジーが出現した時、このテクノロジーを用いた著作権ビジネスの経済秩序を維持するためのシステムとして登場したのです。だから、著作権法とは、あくまでも著作権ビジネスの主人である産業資本家が自分たちの望む経済秩序を、著作権ビジネスの脇役・下働きの者たち(すなわちクリエーター(著作者)、アーティスト(実演家))に押しつけるためのものです。これは、著作権法の誕生した歴史を紐解けば一目瞭然です(その詳細は>こちら)。なおかつ、この本質は近代市民革命を経ても何一つ変更されることなく、その陰微な前近代的本質は今に至るまで綿々と続いています。しかも、今や人々の前には、この著作権法の出自すら用意周到に隠蔽されているのです。

 その結果、いつも、著作権法の表向きの美しいコトバ「著作者らの権利を保護する」とは正反対の、「強きを助け、弱きを挫く」著作権法の前近代的な隠微な本質が温存され、この永遠の欺瞞をめぐって、一度も真正面から議論されたためしがないのです。だから、著作権法の議論はいつもうわべだけのもので、問題の本質的な解決には1ミリも近づけないでいます(その意味で、これほど論争が深まらない、うんざりするくらい面白くも何ともない法律はほかにはありません)。

その結果、本来なら、著作権法により正当なポジションが与えられ擁護されて然るべき人たちが、「偽善法」或いは「法律のアフガン(世界最貧民の法)」ともいうべき著作権法のために、不当な悲惨な立場に追いやられています。それが、クリエーター、アーティスト(生産者=労働者)の人たちであり、エンドユーザ(消費者)の人たちです。これは著作者個人の問題ではなくて、著作権法システムという構造的な問題です。

そして、以上の構造的な問題が、一方で、著作権ビジネスの主人である産業資本家(テレビ局、映画会社、出版社など)と著作者との間でゴタゴタが永遠にくり返され、他方で、著作物の作成過程で他人の著作物を参照・利用したをめぐって著作者同士の間の著作権紛争がくり返される根本的な原因となっています。そして、著作権法は、1980年代から毎年せっせと改正をくり返してきたけれど、この間に、著作者が「加害者にも被害者にもならないために」著作者を守ってくれるルール作りを一度も誠実に考えたことはなかったし、このままなら今後も永遠にないでしょう。著作権法にとって、著作者の創作上の苦悩なんてどうでもいいことなのです。

しかし、「法律の起源」という問題に立ち返った時、ルール(法律)とは国家が国会を通じて作る制定法だけが法律ではありません。もうひとつの法律があります。それが「生ける法」と呼ばれる生成法です。生成法とは市民集団が社会生活の中で自生して形成していくルールのことです。その本質は「市民同士の合意」にあり、制定法が制定者と市民が上下(垂直)の関係にあるのに対し、生成法は制定者と市民は対等(水平)の関係にあります。

生成法は、市民の意識に支えられ、市民の現実の行動を支配するものとして見出される。それが「生ける法」。これが社会をリードする、と。 「生ける法」の提唱者のエールリッヒはそう考えました。

この意味で、私たちは「制定される法」と「生ける法」との二重権力状態の中にあります。1917年のロシア革命前夜だけが二重権力状態なのではありません。そして、市民が生成する「生ける法」こそ社会をリードするのです。

このコーナーは、本来なら、著作権法の主人公であるはずのこうした市民(クリエーター、アーティスト、エンドユーザ)の人たちに、これまで一度も真正面から議論されたことのない「著作権のコモン・センス」を公開し、著作権法の理念どおりに、価値を創造する著作者こそ文字通り著作権法の主役に復帰するという主客転倒に向けて、一歩を踏み出そうと願うものです(その詳細は>こちらのメニュー「著作権のコモン・センス」まで)。