2016年9月13日火曜日

佐藤雅美 VS テレビマンユニオン 著作権侵害事件(上告審)上告理由書(2016.9.12)

2013年12月に原告準備書面()を書いた時、「翻案権侵害の判断基準について、代理人にとって集大成の書面を作成した」と述べたが、図らずも、2年半後にもう一度、同じ言葉を吐く羽目となった。
ただし、その当時は主に芸術論の集大成だった。今度は法律論の集大成が加わった。

この紛争と裁判の経過を振り返れば振り返るほど、被告と裁判所の対応のズサンさに黙っておれなくなって本書面を書いた
晩年の大岡昇平は「善人は黙っていてはダメですよ」と言った。その通りだと思う。
 

以下は、昨日、提出した上告理由書。-->PDF版本文別紙1~15

(※) 本事件の裁判資料
   訴状(2013.6.12)      一審判決(2015.2.25)
   控訴理由書(2015.4.28) 二審判決(2016.6.29)

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平成28年(ネオ)第10014号
上告人  佐藤 雅美
被上告人 株式会社 テレビマンユニオン
上告理由書
206年12
最高裁判所 御中
上告人代理弁護士     柳 原 敏 夫

 頭書事件につき、上告人は下記の通り理由を提出する。

目  次
別紙

第1、事実関係と原判決の概要、本件紛争の本質、そして上告人の決意

1、事実関係と原判決の概要
本件は,被上告人が2011年から2012年にかけて制作、放送した被告各番組が、上告人が著作した原告各小説の著作権(翻案権,複製権)及び著作者人格権(同一性保持権,氏名表示権)を侵害したか否かが争われた事案であり、これに対し、一審判決は,上告人の請求のうち一部のみ著作権(複製権,翻案権)侵害を認めたが、大部分のその余の請求を棄却し、原判決もこれを支持したものである。

2、本件紛争の本質

(1)、第1の紛争
 テレビ番組の制作業界の最大のテーマは番組制作費をいかに安く抑えて、視聴率をいかに高くするかである。そのため、番組制作で他人の著作物を利用した場合でも、これまで、制作費を安く抑えるため正面から著作権者の許諾を得ることをせず、著作権者を当該番組に出演してもらうことで許諾問題を解決するという悪しき慣習に従うことがあった。本件で、被告番組1の放送直前の2011年7月(甲13。5枚目本文2行目)、被上告人が突然、上告人に被告番組1への出演依頼の連絡をしてきたのはこの慣習に従ったものである。しかし、上告人が出演を断ったので、そこで被上告人は「参考にするので(無償で)許諾して欲しい」と次の便法に出た。尤も、上告人を煙に巻くためのものだったから被上告人は参考利用に関する具体的な説明をしなかったが、幸か不幸か、上告人がそれ以上の追求をしなかったため問題の発覚を免れた。これが第1の紛争である。
(2)、第2の紛争
問題の発覚を免れ、これに味をしめた被上告人は、次の被告番組2でも原告小説2を利用しながら同様の手口(参考に対する許諾)で済まそうとし、2012年1月、電話で申入れをしたところ、被上告人のFAXによる申入れの文面(甲13)を鵜呑みにした上告人は了承の返事をした。これが第2の紛争である。
(3)、第3の紛争
これでさらに味をしめた被上告人は、3度目の被告番組3でも原告小説3を利用しながら同じ手口で済まそうと、2012年7月、電話で参考にしたいと申入れをした。これに対し上告人が「どうぞ」と了承した途端、つい本音が出て、上告人が電話を切るより早く、ガチャンと電話を切るというぞんざいな態度が出てしまった。これが引き金となり、被上告人に改めて確認したところ、実は被告番組3は既に制作済みで、放送の日まで決まっていたことを初めて知り、前2作の被告番組のビデオテープを送るという約束すらその後も果されていないことも思い出した上告人は被上告人の一連のいかがわしい、無礼な態度に激怒するに至った。これが第3の紛争で、本件紛争が火を噴いた瞬間だった(以上、甲1原告陳述書(1)24~26頁)。
そして、送付された被告番組のビデオテープを再生してみて原告小説の著作権侵害を確信した上告人は、被上告人の「役員の謝罪文」(甲16。別紙1)ではとうてい怒りが収まらず、提訴に至ったものである。
(4)、本件紛争とは何か
 かつて、上告人の処女作「大君の通貨」を読み、《震えるような感動を覚えた》被上告人の執行役員は、第3の紛争が発覚したあと、上告人に対する謝罪文(別紙1)の中で次のことを告白した。
《念願の「THE ナンバー2」という歴史番組の企画が実現し・・・「田沼意次」を取り上げることになったときも、ぜひ「佐藤雅美の歴史観」を番組に取り入れたいと思い》(別紙1。3~4段目)
ここから明らかであるが、被上告人も被告番組の制作にあたって、原告小説を下敷きにして作られたものであることを自認している。しかも原告小説は歴史の論文でも評論でもない。ストーリーや人物設定を備えた紛れもない小説である。「佐藤雅美の歴史観」は全て原告小説のストーリーや人物設定などの表現形式を通じて表現されている。それゆえ、《ぜひ「佐藤雅美の歴史観」を番組に取り入れたい》という被上告人の自白は、原告小説のストーリーや人物設定などの表現形式を番組に取り入れたいという意味にほかならない。しかし、いざ裁判になると、被上告人はこれを認めず、アイデアや歴史的事実自体を原告小説から利用しただけだと開き直った。この点はテレビ業界で番組制作費を安く抑えていくためには絶対譲れないことだからである。
(5)、小括
 しかし、番組制作側の一方的な都合により、他人が創意工夫をこらして作り上げた著作物の創作的表現を「歴史観」の利用という名のもとにただ乗りして構わないのか、それは知的財産権保護の根幹に関わる重大な問題であり、その是非が問われているのが本件紛争の本質である。

3、上告人の決意

 一審、原審と2度の棄却判決に異を唱えることが、時流に逆らう、無謀なこととみなされるのは重々承知している。しかし、前述した本件紛争の本質に照らした時、これらの判決は番組制作側の一方的な都合のことしか考えない、上告人には絶対承服できないものであった。
 110年前、作家夏目漱石は時流に逆らい、英国人に神経衰弱と言われ、ある日本人に狂気と言われながらも、初心にかえり、文学とは何かという文学の本質を問い、文学作品の構造分析の嚆矢となる「文学論」をものした。これがのちの漱石の多様な創作の出発点となった。
 上告人も、神経衰弱と言われようが、狂気と言われようが、創作とは何か、そして法律解釈とは何かについて、初心にかえってその本質を問い直し、その原点から本件の正しい解決を導き出す決意である。こうした取り組みだけが、今後も反復される同種の芸術裁判の適正な解決の出発点となることを疑わない。

第2、上告理由の要旨


 本件の最大の争点は、原告各小説の各シークエンスの翻案権侵害が認められるか否かである。この争点につき、原判決は原告各小説のストーリーの事実認定において経験則に著しく違背し、なおかつ著作権法26条の解釈を誤ったため、その結果、著作権の保護と表現の自由とが衝突しその調整が問題となる憲法21条の解釈を誤ったものである。

第3、翻案権侵害の裁判がなぜ憲法の論点なのか。

1、憲法の論点の起源について

なぜ、翻案権侵害の裁判が憲法の解釈問題なのかと人はいぶかるかもしれない。しかし、それは、かつての「なぜ、わいせつに関する裁判が憲法の解釈問題なのか」という問いに似ている。なぜなら、憲法の論点はいつも最初から憲法の論点だった訳ではないからである。議論が深化する中で初めて憲法の論点として認知されるに至ったものがある。その代表格がわいせつ裁判である。今日、わいせつ裁判は憲法判例百選の重要判例であり、憲法の基本書の定番の論点であることを誰も疑わない。しかし、これは最初からそうだった訳ではない。当初は、チャタレー事件の弁護人環昌一が次のように述懐している通り、175条という刑法の1か条の問題にとどまっていた。
《初めのうちは私も弟も、旧憲法時代の大審院の判例の立場から、この小説が判例にいう猥褻の定義にあてはまらないのだということを中心に見ていたと思います。ただ・・・正木ひろし弁護士だけは、・・・憲法21条の問題があるのではないかということを、ある段階で言い出されてハットとしたことを憶えています。いまから考えると、猥褻文書の事件で、憲法21条を念頭に置かずにやっていたというのは無茶な話だと思われるかもしれませんが、最初は本当はそうだったのです》(別紙2。奥平康弘・環昌一・吉行淳之介「性表現の自由」9~10頁)
 翻案権侵害裁判もわいせつ裁判と似ている。著作権法が複製権中心だった時代、他人の著作物を単にコピーして利用したとしてもそこで憲法問題が登場する余地はなかった。それゆえ、著作権法に翻案権が登場した際にも、それまでの複製権中心の発想から抜け出せず、翻案物が著作権法27条の翻案権の侵害になるかどうかだけを考えていたのである。しかし、翻案が複製と決定的に違うのは、翻案物の作成者が自らも創作行為=表現行為をしている点である。従って、もし翻案権侵害の判断を誤り不当に翻案物の利用を禁止した場合には、翻案物の作成者の表現の自由が不当に制限される結果をもたらす。
この点に着目すれば、わいせつ裁判がかつて、単なる刑法175条の解釈にとどまるものから、やがて、性秩序の保護と表現の自由との衝突とその調整という憲法の論点として正しい位置づけが与えられたように、翻案権侵害裁判も、これまでのように、単なる著作権法27条の翻案権の解釈にとどまるものから、いずれ、著作権の保護と表現の自由との衝突とその調整という憲法の論点として正しい位置づけが与えられるようになる。そして、上述のチャタレー事件の弁護人環昌一のように、次のように述懐する時が訪れる筈である。
《いまから考えると、翻案権侵害の事件で、憲法21条を念頭に置かずにやっていたというのは無茶な話だと思われるかもしれませんが、最初は本当はそうだったのです》
以下、この点について詳述する。

2、江差追分事件上告審での主張

江差追分事件上告審の1999年6月25日付上告理由書(2)中で、翻案権侵害の裁判がなぜ憲法の論点なのかについて、次の通り主張された。
一、翻案権侵害が意味するもの
1、表現の自由との衝突・対立という緊張関係
 その第一が、翻案権侵害の事例が複製権侵害などとは異なり、単なる著作権保護の問題にとどまらないことである。つまり、もし裁判所が翻案権侵害の判断を誤り、原告作品の著作権の保護範囲を不当に拡大した暁には、それが直ちに、相手方の被告作品(本件ならばドキュメンタリー作品)の制作活動に対する不当な制約となってはね返り、表現活動の自由に対する深刻重大な影響をもたらすという関係にあることである。のみならず、その影響はひとり被告の表現活動のみならず、被告作品と同種の作品一般(本件であればドキュメンタリー作品一般)にも広く同様な影響を及ぼし、本件であれば、判決が示した基準がドキュメンタリー作品一般における表現の自由に対する不当な制約として機能するおそれがある。つまり、翻案権侵害事件というのは、本質的に、「原告作品(本件ではノンフィクション)の著作権の十分なる保護と被告作品(本件ではドキュメンタリー)の表現活動の自由との衝突・対立をどう調整するか」という表現の自由の限界に関する問題を内包している。その意味で、本件の著作権問題に横たわる本質的な課題は、かつて、性秩序の保護やプライバシーと表現の自由との対立・衝突をどう調整したらよいかが争点として論議された「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件や、「宴のあと」事件、「エロス+虐殺」事件の場合或いは先頃判決のあった柳美里作品の出版差止事件とまったく変わらない。
2、従来、このことが自覚されなかった訳
 もっとも、このことは、従来、必ずしもきちんと自覚されていた訳ではない。その最も主要な原因は恐らく著作権法が長らく複製権中心の体系を取っていたためである。つまり、複製権侵害の場合であれば(その典型がいわゆるデッドコピーであるが)、複製された著作権者の保護のことさえ考えれば足りたのであって、それ以上、無断複製した側の自由・権利のことを考慮する必要なぞ全くなかったからである。
 しかし、著作権法に翻案権が導入されたとき、その当初の目論見が複製権侵害の隠れ蓑を封じ込めるためであったとはいえ(中川善之助ほか「改訂著作権」128頁。参考文献六)、それは同時に、著作物の制作者同士の間で、当該先行著作物の利用が「自由利用の限界」を超えたものであるかどうかという(榛村専一著「著作権法」115頁以下参照、参考文献四)、先行著作物の利用のあり方をめぐる「著作権法上の最も困難な問題の一」たる紛争が翻案権侵害という名の下で争われることになったのである(最一小判平成一〇年九月一〇日判決のNHK大河ドラマ「春の波涛」事件などはその典型である)。そのため、そこでは、それまで伝統的な複製権侵害のケースでは想定されていなかったような新たな利害対立(先行著作物の著作権の保護と後行の著作物の表現活動の自由との対立・衝突)が認められ、従って、翻案権侵害においてはこの利害状況を正しく自覚しておくことが不可欠の要請なのである。》(14~17頁)

3、社会の関心

翻案権侵害事件が著作権の保護と表現の自由との衝突とその調整という憲法の論点であることが社会的に報じられた最初は、おそらく2001年7月5日付の東京新聞の記事「翻案権」である(別紙3)。
また、近時、研究者の中でも、ようやくこの問題を取り上げる者が登場してきた(中山代志子「著作物の権利制限規定を巡る著作権と言論の自由の衝突」(2004年)。西森菜津美「表現の自由と著作権」(立命館法政論集〔2008年[1]〕(別紙4)。飯野守「パロディにみる表現の自由と著作権の相克」(2008年)[2](別紙5)。大日方信春「著作権と表現の自由」(2009年)[3](別紙6)。同「著作権と憲法理論」(知的財産法政策学研究〔2011年〕[4](別紙7)。とはいえ、翻案権を正面から論じるのではなく、パロディ事件を手がかりに、著作権と表現の自由の衝突を論じたものである)。

4、小括

もっとも、上告人は翻案権侵害事件が著作権の保護と表現の自由との衝突とその調整という憲法の論点であるからといって、本件で原判決が表現の自由を侵害したと主張するものではない。むしろ、その逆で、翻案権の正当な保護をしなかったと主張するものである。そのような場合であってもなお憲法問題であると主張する理由は次にある――本来、社会的な関係を有する人権で絶対無制限のものは存在しない。必ず他の権利と衝突することが避けられず、その限りで、衝突した権利との調整を余儀なくされる。つまり、他の権利との衝突による調整が人権の本来の姿であり、人権の解釈の中心的課題である。だとしたら、著作権法26条の解釈を誤り、翻案権の正当な保護を実現しなかった結果、「著作権の保護と表現の自由との調整」を誤ったことは、表現の自由に関する解釈を誤ったという意味で、憲法解釈に誤りがあると言わざるを得ず、以上から民訴法312条1項(憲法解釈の誤り)の上告理由に該当する。

第4、問題の所在――上告人の訴えの核心――

1、はじめに――翻案権侵害の判断はいかにして正当化されるのか――

 翻案権侵害の判断基準は著作権法の難問中の難問である。そのため、個々の翻案権侵害事件に対する判決のたび、人々の胸の内に、裁判所の判断はいかにして正当化されるのかという素朴な疑問が生まれる。しかし、最初に、これを正面から問うたのは、今から90年前の29歳の我妻栄である。彼は、のちに我妻民法学と呼ばれる私法解釈の方法論の礎を確立した古典的名論文「私法の方法論に関する一考察」)(別紙8)で、簡明率直に、次の問題提起をしたが、この時彼は、私法解釈の方法論について、初心にかえって、時代を超えた普遍的な課題を掲げたのである。
《けれども、我々が、翻って、この具体的の事件に対する個々の判断によって求められた、いはゆる妥当な判断が、何によってジャスティファイせられるであろうか、といふ点に思ひを致すとき、我々は限りなき不安に捉われざるを得ない。》(別紙8の1)
 《解釈論は解釈論として伝統的な途をたどり、経済学や社会学の勉強はその他の教養としている態度には到底満足ができな》(別紙9)かった我妻が、《立っている足許が崩れるような不安と焦燥》(同上)の中から、《解釈論そのものの裡に、これらの研究(代理人注:経済学や社会学)を取り入れて、そこに安住の地を見出すことができないか。これが、当時の私にとっての苦悩の中心であった》(同上)という模索と格闘、吟味と呻吟の末に到達した結論とは、要約すれば次のことであった。
法律解釈の使命は、互いに相克する関係にある「一般的確実性と具体的妥当性という2つの理想の調和」を、すなわち、形式的、画一的に規律することより秩序の維持と予測可能性を与えつつ、同時に社会生活の個々の事件を妥当に規律することを実現することにある(新訂民法総則(民法講義Ⅰ)【21】。新版民法案内Ⅰ130~133頁参照)。
 そして、現代法が基礎とする法律構成が法律を大前提とし、具体的事実を小前提とする三段論法を採用した結果、一般的確実性と具体的妥当性という2つの理想の調和は大前提である法律と小前提である具体的事実の両面に及んだ。これについて、我妻は同論文中に次のように説いた。
①.大前提である法律
《現行法の体系なるものを、一面において、論理的に矛盾なき体系であり、しかも他面において、新しき要素を包含する余地を与え得るやうに可動的なものとなさんがためには、如何にすればよいであろうか。
 それは、結局、その体系の中に包含せられる概念と規則の意味内容を吟味し、時代の推移に伴って常に妥当な意味内容を与え、その内容の硬化せざらんことに努めることである。総ての規定、総ての概念は、その発生に当たっては、一定の具体的な内容を与へられることによって合理性を有して居ったに相違ない。けれども、社会の推移に伴って、その具体的な内容とせられた事情をに変化を生ずることは、拒否し難い事実である。従って、この場合に、なほ当初の内容を形式的に墨守しては、もはや、その概念や規則をしてその本来有して居った合理性を保持せしめ得なくなることは、賭易い道理である。従って、我々は、総ての規定乃至概念を分析して、その一定の時代、一定の社会において与へられた具体的な内容とその合理性との間に存する関係を捕捉し、これに基づいて、新しき社会状態の下にその内容のウムビルデン[5]を企てなければならない。かくして、はじめて、法律体系は、その支柱となり枢軸となる規定や概念の硬化することを避け、フレキシブルなものとして進展し得るのである。》(別紙8の3)
「法律体系の支柱となり枢軸となる規定や概念」を本件に当てはめれば、それは「翻案権」であり、「ストーリー」であり、「創作性」である。本件紛争の具体的妥当性を実現するためには、これらの概念に妥当な意味内容を付与するという作業が不可欠である。
②.小前提である具体的な事実(生活関係)
《この結合(代理人注:現行法の体系と具体的価値判断の結合)の操作を理想的になし得んがためには、我々は、単に現行法の体系と価値判断の標準を攻究するに止まらず、更にその結合によって処理せられる具体的な生活関係が、社会生活において如何にして発生し、如何なる過程において変遷しつつあるものなりやを明かにしなければならない。然らざれば、ただに具体的価値判断が不可能になるのみならず、現行法の論理的体系に適合するや否やさえも容易に判断し得ないことは、多く説明するを要しないことであろう。・・・従って、要言すれば、私のいわゆる裁判を中心とする立場においてする根本的問題の研究は、結局、次の三箇の主要な問題に当面することとなるであろう。即ち、第1に、・・・第2に、その規律せられる生活関係が、社会における数多のファクターの如何なる交渉によって、如何なる変遷を辿りつつあるものなるかを明らかにすべく・・・第2の問題は、社会現象の法律を中心とした実証的研究を意味し・・・》(別紙8の2)
「社会現象の法律を中心とした実証的研究」とは、一般の民事事件であれば、一般の社会生活の意義を経済学や社会学の研究成果を取り入れて実証的に明らかにすることである。特許事件であれば、特許発明や対象製品の意義を、科学技術の知見・成果を取り入れて実証的に明らかにすることである。著作権事件の本件であれば、それは著作者(上告人)の創作活動の中で作成された「ストーリー」やその「創作性」の意義を、芸術、文芸学等の知見・成果を取り入れて実証的に明らかにすることである。本件紛争の具体的妥当性を実現するためには、著作者の創作活動の成果に実証的な内容を付与するという作業が不可欠である。
 この論文のラストは次の言葉で結ばれている。
《私は、その提唱する裁判中心の考察方法の途を進むに当たって当面した三箇の問題の関係を、次の如く要約せんとする。
 法律学は、                 
「実現すべき理想の攻究」を伴わざる限り盲目であり、
「法律中心の実有的[6]攻究」を伴わざる限り空虚であり、
「法律的構成」を伴わざる限り無力である。》(別紙8の4)
すなわち、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ[7]」、と同時に、その「新しい皮袋」は御都合主義的な判断を許さない明確な判断基準として機能するだけの「しっかりした皮袋」である必要がある。
本書面もまた、我妻のこの結語に立ち返り、「一般的確実性と具体的妥当性という2つの理想の調和」の実現を目指して、本件を吟味しようとするものである。以下、具体的に論証する。

2、上告人の訴えの核心

 前記1を踏まえて、上告人の訴えは次の4点に集約される――第1に、法律解釈の使命である「一般的確実性と具体的妥当性の調和」について、原判決は原告小説のシークエンス[8]のストーリーの翻案権侵害(以下、本件翻案権侵害という)の判断において一般的確実性を確保したかもしれないが、しかし、肝心の具体的妥当性を見失った(その具体的な内容については第7で後述する)。第2に、問題は原判決が具体的妥当性を見失った原因にある。その最大の原因は「原告小説の創作性の実質的価値」の正しい把握に失敗した点にある。そして、原判決が「原告小説の創作性の実質的価値」の把握に失敗した点において、(結論は反対だが)江差追分事件の一審・二審判決[9]と同様である。それゆえ、本事件も江差追分事件最高裁判決[10]と同様、「原告小説の創作性の実質的価値」の正しい把握に立ち返って、破棄自判されるべきである。第3に、その際、本事件は、かつて江差追分事件最高裁判決が示した翻案権侵害の判断基準がその一般条項的な抽象的基準にとどまったが故に、この基準が裁判官の個人的思想によりご都合主義的な判断を招来させるおそれがあったことを自戒し、この一般条項的な判断基準を一歩進め、今後、裁判官の個人的思想によりご都合主義的な判断を招来させないような、具体的妥当性を確保する新たな法律構成の提供に努めるべきである。第4に、原審は審理の半ばで(審理終結の5ヶ月前に[11])、上告人が主張した原告小説のシークエンスのストーリーの整理に対して、これは「時期に遅れた攻撃防御方法である」として、この整理を認めなかった。一審では一度たりとも、原告小説のシークエンスのストーリーの中身(創作性や類似性)に立ち入って審理したことがなく[12]、原審に至って初めてこの中身について審理に入った直後の出来事であった。これがいかに理不尽な訴訟進行か、第7、5で明らかにするが、裁判所のこうした不可解な振る舞いの根本原因は、原審裁判所が「原告小説の創作性の実質的価値」の正しい把握に自信が持てなかったからである。よって、この点も「原告小説の創作性の実質的価値」の正しい把握に立ち返って、破棄自判されるべきである。

3、本書面の最終ゴール

 本書面の最終ゴールは第3の訴えにある。すなわち、法律解釈の使命である「一般的確実性と具体的妥当性の調和」を実現する、新たな翻案権侵害の判断基準を示し、もってこれを本件に適用して、具体的妥当性を満たす結論を示すことである。そのために、予備的考察として以下の2点を論ずる。
①.第2の訴えである、原判決が具体的妥当性を見失った原因は何か。とりわけ個々の裁判官の個人的思想を超えた、構造的な原因は何か。
②.「著作物の創作性の実質的価値」の適正な把握のための理論的検討及び専門的検討。
 

第5、予備的考察1:原判決が具体的妥当性を見失った原因

1、はじめに

 翻案権侵害の判断基準は著作権法の難問中の難問である。しかし、なぜこれが難問なのか、その理由は必ずしも十分に自覚されていない。そして、この点の無自覚・無理解が、翻案権侵害事件において具体的妥当性を見失う原因は何かという問題と正面から取り組み、これを解決することの困難を倍加している。そこで、この原因解明の問題と正面から取り組むために、この難問の所以を明らかにする意義がある。
翻案権侵害の判断基準が難問である所以は、第1に、著作権法の歴史の中で翻案権が登場した起源により示される。第2に、同じ知的財産権のうち特許法の難問の1つである均等論と対比することにより翻案権の判断基準の難問である所以とその解決の手ががりが一層明らかにされる。
以下、順番に述べる。

2、難問である所以(1)――翻案権の起源――

著作権の起源については阿部浩二の研究が知られている(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」)のに対し、翻案権の起源についてこれに匹敵する研究は寡聞にして知らない。その意味で極めて不完全であるが、翻案権の起源について、野村義男が中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)で以下のように明らかにしている。
ベルヌ条約創成(1886年)当時から、翻案という美名のもとに他人の著作物が借用されることが横行し、その防止は国際的に大きな課題だった。すなわち他人の著作物をそのまま複製すると著作権侵害になるので、これを回避するため原著作物の全部または一部を改作して、すなわち翻案して利用するされることを防がねばならないとされた。そこで、このような翻案の場合も著作権侵害になるとした。つまり、著作物の創作性の実質的価値に着目して、表現形式の意味を外面的表現形式にとどまらず内面的表現形式にまで拡張解釈して、内面的表現形式の無断使用を翻案権侵害とし、「翻案という美名のもとに」著作物の無断使用を防止し、もって具体的妥当性を実現するために翻案権が登場したのである(中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)128頁(別紙10の2))。
 すなわち、このとき「新しい酒は新しい皮袋に盛られた」。ここから明らかなように、著作権制度に「新しい皮袋」である翻案権が登場した時点において、著作権の基本概念に重大な変更(拡張)がなされたのである。つまり、それまで表現内容とされていた領域のうち、著作物の創作性の実質的価値に着目して表現形式と同等の価値を有すると認められる領域が存在することを発見し、これを内面的表現形式と名付け、新たな表現形式として(その結果、それまでの表現形式は外面的表現形式と再定義された)編成し直した(いわば表現形式の拡張解釈による領域拡大)。この変更された概念により、翻案とは、既存の著作物の内面的表現形式を維持しながら、外面的表現形式を変更することとされた(加戸守行「著作権法逐条講義」の次の記述《その他の翻案としましては、既存の著作物の内面形式を維持しつつ、つまりストーリー性等をそのまま維持しながら、外面形式、つまり具体的な表現を変える、シチュエーションを変えるというような場合》(50頁)もこの変更を踏まえたものである。また、表現形式の概念が外面的表現形式から内面的表現形式にまで拡張された歴史について、これを理論的な面から説明しようとしたのが半田正夫「著作権法概説」〔第9版〕82~86頁である。)。
その結果、それまで、伝統的な「表現内容」と「表現形式」の区分のもとで、複製権侵害の判断は基本的に単純明快であった[13]のに対し、翻案権の登場と共に、新たに「表現内容」と「表現形式」の境界線が再編成され、それまで「表現内容」だった領域の一部が「内面的表現形式」と命名され、「表現形式」の領域に組み込まれたため、「内面的表現形式」の無断使用という翻案権侵害の判断は、それまでのようには単純明快に済まなくなった[14]。つまり、翻案権登場以前に「表現内容」として同一領域にあった(翻案権登場後の)「内面的表現形式」と「表現内容」を区別することは、伝統的な「表現内容」と「表現形式」の区別のようには単純明快ではない。
 以上の通り、「表現形式」の拡張解釈による翻案権登場という歴史的出来事それ自身が、翻案権侵害の判断基準の定立の困難さを内包している。
 では、この難問の解決は不可能なのか。そうではない。その解決の手がかりは著作権と同じ知的財産権の特許法の難問とされる均等論の中にある。

3、難問である所以(2)――均等論との対比――

(1)、均等論と対比する意味
 著作権と同じ知的財産権の特許法の難問とされる均等論と対比してみるとき、翻案権侵害の判断基準が難問である所以が一層明らかになる。
 なぜなら、翻案権は均等論に似ているからである。つまり、均等論は、特許請求の範囲に記載された通りの構成を有する製品は特許権侵害になるので、これを回避するため特許請求の範囲に記載された構成と異なる実施態様を採用した場合に、「特許発明の実質的価値」に着目して、クレームの文言を拡張解釈し、特許権侵害を認め、もって具体的妥当性を実現しようとする法理である。翻案権も、前述した通り、他人の著作物をそのまま複製すると著作権侵害になるので、これを回避するため原著作物の全部または一部を改作して、すなわち翻案して利用する場合に、「著作物の創作性の実質的価値」に着目して、表現形式の意味を拡張解釈して、「翻案の名の下に」著作物の無断使用を著作権侵害を認め、もって具体的妥当性を実現するために登場した権利だからである。

(2)、両者にとって本質的な課題
従って、拡張解釈によって登場した均等論と翻案権侵害論はともに、拡張解釈が宿命的に直面する「具体的妥当性と法的安定性との相克と調和」という本質的な課題と否応なしに取り組まざるを得ない。
この点、均等論において、最高裁は「具体的妥当性と法的安定性との相克と調和」を実現するため、均等成立の判断基準を5つの要件として明確に示した(最高裁平成10年2月24日判決ボールスプラン事件)。これは著作権の世界から見たとき驚嘆すべきことである。均等論と同様、拡張解釈の宿命的、本質的課題である「具体的妥当性と法的安定性との相克と調和」に直面してきた翻案権侵害において、判断基準がこのように具体的に明確に示されたことは一度もなかったからである。

(3)、均等論において均等成立の判断基準の定立が可能だった理由
では、なぜ、均等論において均等成立の判断基準の定立が可能だったのか。それは何よりもまず特許裁判において「特許発明の実質的価値」を可能な限り適正に分析するために必要な専門家によるサポート体制(裁判所調査官・専門委員制度・技術説明会など)が完備し、運用されているからである。そして、この専門家のサポートによる「特許発明の実質的価値」の分析・解明を踏まえて、均等成立の判断基準について、「一般的確実性と具体的妥当性という2つの理想の調和」の実現を目指して、活発な議論がなされているからである。

(4)、翻案権侵害において侵害の判断基準の定立が不可能だった理由
ところが、翻案権侵害においては、「著作物の創作性の実質的価値」の解明は芸術論、文芸論の専門分野の知見なしに困難を極めることが多いにも関わらず、特許裁判で用意されているような前記サポート体制は、「著作物の創作性の実質的価値」を可能な限り適正に分析するためにひとつも運用されていない。裁判所調査官も専門委員もいない。著作権事件に裁判所調査官も専門委員も置かない理由を最高裁判所は明らかにしていないが、その最大の理由は、芸術は科学技術と異なり、通常人でも理解できるという社会通念に従っているからと推察される。そうだとしたら、これは明らかに間違っている。なぜなら、「芸術は通常人でも理解できる」とは芸術作品を鑑賞し、感動するのは誰にでもできるという次元のことであるのに対し、ここで求められているのは「芸術作品の構造分析」の次元のことであり、それは芸術論、文芸論に精通した専門家の手により初めて可能な作業であって、通常人が到底、首尾よく成し得ることではないからである。「発明や著作物といった知的財産の構造分析」の専門性という点において芸術裁判も科学技術裁判も変わらない。
 その結果、裁判官は翻案権侵害事件において「著作物の創作性の実質的価値」について芸術論、文芸論に精通した専門家のサポートを受けられないまま、己の独力でこれを検討せざるを得ない。そのような孤独な検討を経て下された翻案権判決が個人的思想によりご都合主義的な判断を招来する恐れがあるのは、科学技術の専門分野について専門家のサポートを受けられないまま下す特許判決が裁判官の個人的思想によりご都合主義的な判断を招来する恐れがあるのと変わらない。
 また、「著作物の創作性の実質的価値」の解明のために芸術論、文芸論に精通した専門家のサポートを受けられない現行制度のもとでは、翻案権侵害の判断基準について活発な議論が皆無なのは理の当然である。それは創作性の実質的価値の解明を踏まえて初めて可能になる議論だからである。その結果、均等論で実行されている「拡張解釈が直面する具体的妥当性と法的安定性との相克と調和という困難な課題」の検討は、翻案権侵害においては殆どなされない。その結果として、翻案権侵害においては、江差追分最高裁判決が示した翻案権侵害に関する抽象的判断基準いわゆる一般条項を拠り所にして結論を引き出すというお茶を濁すやり方が横行する。これでは一般的確実性は確保するかもしれないが、具体的妥当性を見失うおそれがある。そもそもこのようなやり方は均等論では凡そあり得ない。均等論も翻案権も、その起源はいずれも知的財産である特許発明や著作物の実質的価値に着目して、従前の基本概念の拡張解釈により具体的妥当性を実現しようとする点にある。そうだとしたら、均等論がその登場に相応しく、これまでに特許発明の実質的価値の解明に努めて、均等成立の判断基準を具体的に明確に示してきたように、翻案権も一般条項でお茶を濁すのではなく、その登場に相応しく、著作物の創作性の実質的価値の解明に怠らず取り組み、その成果を踏まえて翻案権侵害の判断基準を具体的に明確に示すことに努めるべきである。特許法と著作権法は知的財産権という同一の枠組みの下で多くの制度が共有されているにもかかわらず、拡張解釈に関する難問(均等論と翻案権侵害論)の解決基準の探求においては、比較を絶するほどの格差が認められる。具体的妥当性を求めて、社会的な声をあげることが容易に可能な特許権者(大企業等)と異なり、社会的な声をあげることが困難な原著作物の著作権者(その殆どが個人である)にとって、かような格差が今後とも放置されることは耐え難い苦痛である。

第6、予備的考察2:「著作物の創作性の実質的価値」の適正な把握のための2つの検討


1、はじめに――専門的検討及び理論的検討の必要性――

 「著作物の創作性の実質的価値」の適正な把握のために何が必要か。この点、第4、1で前述した我妻の論文及び、第5、3で前述した均等論の議論を踏まえたとき、次の2つの検討が不可欠であることが明らかである。
①.専門的検討
 「著作物の創作性の実質的価値」はまず第1に、小前提である具体的な事実として把握する必要がある。しかも本件の事実とは、一般の社会生活の事実とは異なり、芸術に関する専門的な事実である。そこで、第5、3で前述した通り、特許裁判で特許発明や対象製品の意義を、科学技術の知見・成果を取り入れて実証的に明らかにされているように、本件の著作権裁判でも「著作物の創作性の実質的価値」の意義について、芸術、文芸学等の知見・成果を取り入れて実証的に明らかにする必要がある。いわば専門的事項はまずその方面の専門家に聞け、という事実認定の方法が必要である。
②.理論的検討
 他方で、「著作物の創作性の実質的価値」とは単に事実論で完結するものではなく、法律論としてもその意義を明らかにする必要がある。すなわち、事実論と法律論の両方の次元で吟味検討する必要がある概念である。
 このことを最初に鮮やかに示したのが民法学者
平井宜雄である。彼の功績の一つは、それまで漫然と因果関係という言葉で語られてきた諸問題を、
ⓐ.事実論の次元と法律論の次元(事実的因果関係と法的因果関係)に切り分け、
ⓑ.それぞれの次元ごとに、その次元に相応しい吟味検討を加える必要を明らかにし、
ⓒ.(当然とはいえ)検討の順番として、まず事実論を検討し、その成果に基づいて、次に法律論を検討する
という整理をしたことにある。しかも、この功績は因果関係論にとどまらず、法の解釈の方法論全般に及ぶものであった。すなわち、およそ同一の概念で語られる法律の諸問題の吟味検討する際の方法論も基本的に同様であることを明らかにしたのである。この方法論によれば、
翻案権における「ストーリー」や「創作性」も、因果関係と同様、
ⓐ.事実論の次元と法律論の次元に切り分け、
ⓑ.それぞれの次元ごとにその次元に相応しい吟味検討を加え、
ⓒ.検討の順番として、まず事実論を検討し、その成果に基づいて、次に法律論を検討する
という整理をする必要がある。
そして、ⓑで事実論の次元において、「ストーリー」や「創作性」の意義といった専門的事項を把握するため、上記①で延べた専門的検討をすることが極めて重要となる。なぜなら、専門的事項である「ストーリー」や「創作性」の事実認定において経験則に著しく違背しないために必須の検討作業だからである。
以上のとおり明らかにされた専門的検討及び理論的検討の方法論に従って、「ストーリー」や「創作性」の意義について以下、検討する。

2、「ストーリー」をめぐる事実論と法律論

 第5、2で前述した通り、翻案権が保護する対象である「内面的表現形式」とは翻案権の登場を契機に唱えられるに至った純粋に法律的な概念である。とはいえ、この「内面的表現形式」という概念に盛り込まれる具体的な内容は、加戸守行「著作権法逐条講義」によれば、
《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」176頁下から11行目以下)
すなわち、「内面的表現形式」の代表的例示として挙げられた「ストーリー性」「基本的モチーフ」「構成」はもともと法律的な概念ではなく、主に文芸、芸術の世界で使用されてきた概念である。これらは、もともと法律的な概念ではなかったという点で因果関係と似ている。従って、因果関係を事実的因果関係と法的因果関係の2つに分けたように、翻案権が保護する対象として「ストーリー」を取り上げる時、これを事実問題としての「ストーリー」(以下、事実的「ストーリー」という)とこの事実的「ストーリー」を踏まえ、法的な評価を加えた「ストーリー」(以下、法的「ストーリー」という)の2つに切り分けて吟味検討する必要がある。そして、因果関係と同様、「ストーリー」の意義についても、それぞれの次元に相応しい吟味検討を加えてその内容を明らかにする必要がある。

3、事実的「ストーリー」について

(1)、はじめに
①.まず、著作物において、「ストーリー(筋。プロット。構成[15])」がいかに重要なものであるか
②.ついで、「ストーリー」とは何か
という事実的「ストーリー」の重要性とその意義を明らかにする。これらはいずれも専門的事項であるから、前記の専門的検討という見地から、「ストーリー」の専門家である映画の著作者たちの証言に基づいて、明らかにする。

(2)、映画の出来は何で決まるか
 「映画の出来」とは映画表現の個性、創作性のことであり、その個性が人々に感動をもらたすものどうかという意味である。この点、日本映画を代表する監督の1人今村昌平は、次の通り、映画の出来の6分はシナリオで決まると断言する。今村昌平に限らず、黒澤明、小津安二郎など日本を代表する映画監督はいずれもこの点を自覚しており、それゆえ、シナリオ執筆に精力を注ぎ、自ら或いは共同でシナリオを執筆する。
《映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分で決まる。だからシナリオ執筆には何年も費やし、稿を重ねて徹底的に苦しむ。》(別紙11。私の履歴書「映画は狂気の旅である」182頁)。

(3)、シナリオの出来は何で決まるか
ア、「ストーリー」の専門家である映像作家の証言
①.新藤兼人
 この点、日本のシナリオ・ライターを代表する1人新藤兼人はシナリオの構成の重要性をくり返し強調し、自ら「シナリオの構成」(甲25)という本を出版したほどであるが、その中で構成の重要性について、次のようにいう。
《「芝居は誇張してください」と溝口さんはよくいわれた。それはシナリオ・ライターにも俳優にも注文された。「芝居は大きく書きたまえ」といわれた。・・・それは構成を引きしめよといおうとされたのであって、シナリオは構成でまず勝負がきまると思っておられた。》(別紙12「溝口映画の構成」「ひとまわり大きく」61頁)
《私が京都にいる間シナリオができるとすぐ溝口さんの所へ持って行っては、きまったようにこっぴどくやっつけられた。・・・そうした時、必ず口をついて出るのはイプセンの「人形の家」であった。構成の見事さ、問題の提出と同時に危機に突入する鋭さ、ダイナミックな展開法をいわれた。こまかい技術的なことは何もいわれないのだが、人形の家をみろ、人形の家を見ならえといわれた。》(別紙12「溝口映画の構成」「人形の家」56~57頁)
 また、新藤兼人は「シナリオ修行」やエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」の作品分析の中でこう語っている。
《シナリオ・ハンティングが終わったら、次の構成-いわゆるコンストラクションの段階になる。コンストラクションは昔からシナリオの生命であり、基本だと言われてきた。コンストラクションの成果がシナリオの良し悪しを決定するとまで論じられてきた。確かに、テーマ、素材を決定し、シナリオ・ハンティングによってたしかめられた具体的な材料を、生かすも殺すもこのコンストラクションであり、シナリオの価値は材料組立てにかかっている。》(別紙13「シナリオ修行」第5章構成(コンストラクション)23頁)
《ドラマというものは転んで進まなければならない。雪だるま式に転んで太って行くことで頂点に到達できるのである。‥‥一つのフィルムの断片は一個のフィルムという物質にすぎない、しかしそれは組みたてられることによって生命を生む、二つでは単にくらべるだけにとどまるが、三つとなると、中にはさまれたものは前後と関連相剋して、三つの中の一つとしての存在となり、ぬきさしならぬ意味をもってくる、それは無限に分裂衝突しひろがって行く。》(甲24の1「青春の一撃――「戦艦ポチョムキン」5頁」
《ワン・シーン、またはワン・カットのイメージへの霊感は一作を決定づけるほどの重みをもつが、‥‥。『戦艦ポチョムキン』のがっちりと整った構成をみるがよい。それは演劇的でさえあって、起承転結の見本のように単純明快に力強く構築されている。ポチョムキン艦上での将校と水兵の衝突と反乱。オデッサの霧の港の虐殺された水兵の葬式と民衆の沈黙。オデッサの階段で民衆の背後から襲いかかる軍隊の整然たる殺戮。海上で弾圧の艦隊を迎え撃つポチョムキンと艦隊の水兵の発砲拒否。発端からオデッサのクライマックスへと追いあげて行く急カーヴは見事なものである。》(同上6頁)
②.黒澤明
 黒澤明も、映画「生きる」のシナリオの執筆で行き詰ったときを振り返って、次のように言う。
《「生きる」で、主人公の渡辺勘治が仕事を始めてから完成するまでをちゃんと書いていっても、どうしても盛り上がってこない。それで4,5日皆と考えていた時、山本さんが昔、僕に言ったことを思い出した。それがある学者の随筆で、若い奥さんと植物園へ行く、休んでいると、奥さんが子供みたいに椎の実を拾って袂に入れている。それを自分がジッとみているということがきれいに描写してある。そして1行あけて「この妻が死んで×年」と改めて書き出している。
その飛躍の鮮烈なこと、僕は思わず息をのんだ。
『黒澤君、シナリオってのはこれだぜ』って山本さんが言った。それをハッと思い出したんだ。で、勘治のお通夜のシーンへパッと飛び、それではじめて作品がああいう形になっていったわけです」(甲21の1)。

イ、小括
確かに、個々の出来事をどのよう表現するかによって感動が違ってくるが、ただし、作品の感動はそれだけではない。前記の映像作家の証言は、個々の出来事をどのような順番で並べるかによって作品が与える感動が全く違ってくることを述べたものである。つまり、物語・ドラマというものが、個々の出来事で完結するものではなく、それらの組み立てによって初めて完成するものであることを明らかにしたのである。だから、新藤兼人は、ノートの幾冊は構成の組み立てプランで真っ黒に汚れていると言っている(甲25の1「シナリオの構成」70頁)。或いは、シナリオの仕事は建築のような組立の立体感をもっとも必要とすると言っている(同上86頁)。それくらい構成に腐心する。
以上から明らかな通り、シナリオの出来は第1に構成=物語の組み立て=ストーリーで決まる。

(4)、時間芸術[16]の出来は何で決まるか
以上の通り、映画の出来は第1にシナリオの「ストーリー」で決まる。そして、この指摘は映画に限らない。多かれ少なかれ、小説をはじめとする時間芸術全般に当てはまる。すなわち小説、戯曲、映画等の時間芸術の出来は第1にストーリーで決まる。これらの作品はどのような出来事(素材)を選択し、そして、それらの出来事(素材)をどのような順番で並べるか、その工夫で「ストーリーの個性(創作性)」の有無・良し悪しが決まり、人々に与える感動が違ってくる。
これが、19世紀末、小説・物語の「ストーリー」の無断使用も、それまでの個々の出来事の表現の無断使用(無断複製)と同様に著作権侵害になるとされた実質的な理由である。すなわち、時間芸術の出来を左右する著作物のストーリーが「著作物の創作性の実質的価値」を有する「新しい酒」として自覚され、そこで、この「新しい酒」の無断使用を防止するために、「新しい酒」を盛る「新しい皮袋」として表現形式の意味を拡張解釈して新しい概念=翻案権が作り出され、「翻案という美名のもとに」著作物の無断使用を著作権侵害と認めるようになったのである。

(5)、事実的「ストーリー」の特定
ア、問題の所在
 とはいえ、事実的「ストーリー」を特定することは実はデリケートな問題である。なぜなら、それは直接目で見、耳で聞くことができる具体的な表現である外面的表現形式ではないため、直接、目で見たり、耳で聞いたりして特定することができないからである。事実的「ストーリー」を特定するためには著作物からこれを抽出するという特定の作業が不可欠であるため、この抽出作業のやり方次第によっては、事実的「ストーリー」と称して、アイデアの領域の要素や事実自体の要素などが如何様にも混入することが可能となるからである。このような不適切な特定を防止するために、芸術家、芸術批評家、文芸学の専門家等の専門的な知見に基づき、事実的「ストーリー」を厳密に特定する必要がある。以下、この観点から事実的「ストーリー」の特定を実行する。
イ、言語著作物を構成する要素
 日本の代表的なシナリオ解説書である野田高梧『シナリオ構造論』の「構成」(甲17.105~125頁)を参考にして、小説やシナリオなど物語の性質を備えた言語著作物の要素を、抽象性が高い順から並べて構成すると次のようになる。
①.テーマ(主題。どんな思想、アイデアに基づいてストーリーを構想したのか)
②.ストーリー(構成・筋)
③.題材(具体的表現。ストーリーを構成する個々の出来事を具体的に記述した表現)
④.事実自体(③の具体的表現の中で使われる事実自体)
ウ、②のストーリーとは何か
 問題は②のストーリー(事実的「ストーリー」)とは何かである。それは、アイデアの領域に属する①の要素や事実自体である④の要素とどのように区別されるのか、である。
 この点、かつて、
江差追分事件上告審で提出された近代日本文学専攻の小森陽一東大教授の意見書(甲29。以下、小森意見書という)3~4頁によれば、登場人物に関する個々の行動や出来事(以下、これを総称して出来事という)を複数組み合わせて[17]、ひとつの流れとして捉えることをいう。
エ、事実的「ストーリー」であるために必要な要素について
 では、この「複数の出来事の組み合わせ」が事実的「ストーリー」であるためには何が備わっていることが必要か。甲29小森意見書5頁及び甲17の3野田高梧『シナリオ構造論』119頁によれば、それは個々の出来事に主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)、因果関係(Why)の5つの要素(以下、5つのWと略称)が備わっていることであり、それで必要かつ十分である。
オ、小括
以上から、事実的「ストーリー」とは「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」をいう。

4、法的「ストーリー」について

以上の事実的「ストーリー」の吟味分析を踏まえて、法律的概念である内面的表現形式の代表的例示としての法的「ストーリー」について、以下、検討する。
(1)、事実的「ストーリー」との異同
ア、共通点
 因果関係論では、事実的因果関係と法的因果関係は「その行為がなかったならば、結果も存しなかったであろう」という条件関係が備わっている点で共通している。これと同様の意味で、事実的「ストーリー」と法的「ストーリー」の共通点は何か。それはともに「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」が備わっている点である。
イ、相違点
 では、両者にはいかなる相違点があるか。損害賠償の因果関係論で、法的因果関係は賠償すべき損害の範囲を確定するためという法的判断の観点からその内容が吟味されるのと同様に、法的「ストーリー」も、翻案権の保護の対象として相応しい範囲を確定するためという法的判断の観点から、その内容が吟味されるべきである。その結果、法的な保護が与えられるために必要な「ストーリーの個性=創作性」の意義が、文芸や芸術の世界で言われている『事実的「ストーリー」の個性=創作性』とは異なってくる。
 そのためには、「ストーリーの創作性」の事実論と法律論を吟味検討する必要がある。そこで、その前提として、「創作性」一般について、専門的な知見に基づいて導かれる事実論としての「創作性」(以下、事実的「創作性」という)と、著作権法が要求している法律論としての「創作性」(以下、法的「創作性」という)の意義について明らかにしておく。

5、事実的「創作性」について

 事実的「創作性」についても、事実的「ストーリー」と同様、芸術家、芸術批評家、文芸学の専門家等の専門的な知見に基づいてこれを明らかにする必要がある。この点、以下の専門家の知見が事実的「創作性」として説得力があり、適切である。
①.黒澤明
「誰かが言っていたと思うけど、創造というのは記憶ですね、自分の経験やいろんなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造できるはずがない。」(甲21)
②.浅田彰
「今や普通の芸術がそうですからね。ゼロからのクリエーションというのは神話にすぎないんで、つまるところはセレクション(選択)とコンビネーション(組み合わせ)でしょう」(甲22「フラクタルの世界」138頁。宇敷重広との対談)。
③.後藤明生
《ここで断っておきたいのは「自分の言葉」というものはけっして作家が自分勝手に作り出した「新語」や「珍語」のことではない。「新語」や「珍語」を新発明するということではない。これは当り前のようで、実はよく誤解されるようであるが、小説の言葉というものは、どの国語辞典にでも載っている、ふつうの日本語以外のものではない。
 その、ふつうの日本語のどれを選び出して、どう組み合わせるか、ということである。その選び方がその小説家の「自分の言葉」ということであり、その組み合わせ方がその小説家の「自分の文章」ということなのである。》(甲23「小説・いかに読み、いかに書くか」102頁)

すなわち、「創造性」とは黒澤明や浅田彰が喝破した通りもともと「無から創造できるはずがない」「ゼロからのクリエーションというのは神話にすぎない」。そうだとしたら、では、創造性はいかにして可能か。それは、浅田彰や後藤明生が指摘した通り、「言葉、色、音などの素材の選択と組み合わせ」にある。これが事実的な「創作性」の意味である。それゆえ、創作性が豊かであるとか乏しいとかは、結局のところ、「素材の選択とその組み合わせ方」のユニークさの点にかかっている。

6、法的「創作性」について

(1)、法的「創作性」とは何か
では、上記の事実的「創作性」の意義を踏まえて、法的「創作性」をどのように考えるべきか。この点、法律文献では次のように説かれている。
①《他人の作品の単なる模倣や引写しであってはならず、そこに作者独自の思想感情の表れがなければならないということです。ただ、どのような作品であっても、常に先人の文化的遺産のうえに成り立っているわけですから、作者独自のものであるといっても、他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるものではありませんし、また類似あるいは同一の内容のものであっても、その間に模倣、盗用の関係がなく、それぞれに別に創作されたものであれば、いずれも独自の著作物となります。例えば、五十人の生徒が同一の静物を写生すれば、同じような絵が五十できますが、これらはそれぞれ別個の著作物として保護されます。》(「著作権法ハンドブック」1991年度版8頁)
②《ここでいう「創作性」とは、特許等産業財産権の分野で要求される厳格な「新規性」を要求しているものではなく、既存の作品や事実を参考としていても、その表現方法が模倣でなく、著作者自身の表現であればよいのです。》(「著作権法ハンドブック」第9版6頁)
③《創作性という点から見ましても、誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純なプログラムを除き、ほとんどのプログラムは指定の組み合わせ方等に作成者の個性が現れますので創作性が認められ、著作物に該当すると考えてよろしいでしょう。》(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」126頁)
④《ここにいう創作性も著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていればそれで十分だと考えられる。》(半田正夫「著作権法概説」第9版81頁)
⑤《「著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていればそれで十分だと考えられる。」(半田正夫・著作権法概説75頁)と解されているから、要するに、その模写作品の表現されているなかに制作者の個性ないし人となりが現れておれば、精神的創作を認めてよい。》(秋吉稔弘(代表)「著作権関係事件の研究」35頁)
⑥《この場合の独創性は、他に類例のないような純粋にして厳密な独創性をいうのではない。その思考に独自的創作の努力が払われ、その成果に独自性が表われていればよい。》(秋吉稔弘(代表)「著作権関係事件の研究」307頁)
 以上から、法的「創作性」とは、「他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるものではなく」、「著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていること」とされる。

(2)、法的「創作性」の有無の判断
 では、「著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れている」かどうかは具体的に何に着目して判断したらよいか。その判断は一通りとは限らず、複数の方法が可能だろう。今、これについて手がかりを与える1つの方法がプログラムの創作性について述べた上記③の次の記述である。
《誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純なプログラムを除き、ほとんどのプログラムは指定の組み合わせ方等に作成者の個性が現れますので創作性が認められ》る。(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」126頁)
さらに、これを一般化したのが中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)の編集著作物に関する以下の記述である[18]
「このように素材の選択または配列に独創性を認めることは、(代理人注:編集著作物に限らず)著作物全般に通ずる性質でもある。著作物は表現を保護するということは、内部的・内面的な組成方法すなわちコンポジションをも独創性があれば表現形式として保護されることになる」(60頁〔別紙10の1〕)

(3)、小括
 前記5(事実的「創作性」について)で、芸術家、批評家たちにとって創作性とは「素材の選択と配列の仕方」にあると述べた。本来、法律の次元の創作性は事実の次元のそれを基礎とするものであるから、法的「創作性」も、事実的「創作性」と同様に「素材の選択と配列の仕方」にあると考えるのは理にかなっている。
 以上から、法的「創作性」の有無の具体的な判断は、著作物の「素材の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れているかどうかで判断するのが適切であり、これで必要十分である。

7、法的「ストーリーの個性=創作性」について

以上の検討から、次のことが導かれた。
①.法的「ストーリー」とは、
事実的「ストーリー」と同様、「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」のことをいう。
②.法的「創作性」とは、著作物の「素材の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れている場合に認めることができる。
言うまでもなく、法的「ストーリー」が翻案権の保護の対象となるためには、これが創作性を備えていることが必要だが、その場合の「ストーリーの個性=創作性」の程度については、前記6で述べた通り、文芸や芸術のプロの世界で求められるような「他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるもの」ではなく、およそ著作者の個性がなんらかの形で現れていれば足りるものである。
以上から、法的「ストーリーの個性=創作性」とは次のように言うことができる――「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」において、「個々の出来事の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れていること、言い換えれば「誰がやっても同様なものになる」のでない限り創作性が肯定される。
 以上で予備的考察を終わり、以下、第4、3で予告した、「一般的確実性と具体的妥当性の調和」を実現する、新たな翻案権侵害の判断基準を示し、もってこれを本件に適用して、具体的妥当性を満たす結論を示す本論の作業を実行する。

第7、本論


1、本件翻案権侵害の判断基準

 以上、第5及び第6の予備的考察の結果、原告小説のシークエンスの翻案を問う本件翻案権侵害の判断基準は次の通りとなる。
①.原告作品の(内面的)表現形式として、原告小説のシークエンスから法的「ストーリー」すなわち「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」(以下、「複数の出来事の組み合わせ」という)を特定すること(内面的表現形式)。
②.前記①で特定した法的「ストーリー」において、「個々の出来事の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れていること(創作性)。
③.被告作品の(内面的)表現形式として特定した「複数の出来事の組み合わせ」が前記①で特定した原告作品の「複数の出来事の組み合わせ」と類似すること(類似性)。
④.前記③の被告作品の「複数の出来事の組み合わせ」が原告作品に依拠して作成されたこと(依拠性)。
 これがストーリーという「新しい酒」を盛るための「新しくてしっかりした皮袋」である。
 そこで、以下、この判断基準を本件に適用する。

2、上記判断基準の本件への適用1(原告小説のシークエンスの法的「ストーリー」の特定)

(1)、はじめに
 上記判断基準の第1の要件である「著作物から法的『ストーリー』を特定する」ためには、次の2つの問題を検討し、解決する必要がある。
①.どのようにして法的「ストーリー」を特定するか(Howという問題)
②.どのような法的「ストーリー」を特定するか(Whatという問題)

(2)、Howの問題:どのようにして法的「ストーリー」を特定するか
 著作物からどのようにして法的「ストーリー」を特定するかについては、第6、4の予備的考察で吟味検討した通り、「5つのWを備えた複数の出来事の組み合わせ」として特定すべきである。

(3)、Whatの問題:どのような法的「ストーリー」を特定するか
ア、問題の所在
次の問題は、原告小説のシークエンスから法的「ストーリー」を特定するにあたって、どのようなストーリーを、言い換えればどのような「複数の出来事の組み合わせ」を取り上げるか、である。
イ、検討
結論として、ストーリーの中身を決定するのはほかでもない、原告小説を著作した著作者本人(上告人)である。すなわち上告人のストーリーの作成意図とその結果により決まる。それを明らかにしたのが原告陳述書(1)(甲1)である。この陳述書の中で、上告人は、原告小説執筆にあたって、ストーリー作成の作法に従い、ストーリーの主題(テーマ)に沿って、その主題にふさわしい題材(素材=出来事)を選択し、その複数の出来事を組み合わせたことを明らかにした。
その際、注意すべきなのは、第1に、原告小説のストーリーのスタイルがただ1本のストーリーだけが直線的進行していく直線的ストーリーではなく、主要なストーリー(主系)と支流的なストーリー(傍系)が絡み合って進行していく断続的ストーリーであり、第2に、上告人が翻案権侵害として主張するストーリーは、このうち主要なストーリー(主系)だけであって、支流的なストーリー(傍系)は問題としていないということである(2015年11月27日付控訴人最終準備書面(第2部 翻案権侵害具体論)〔以下、控訴人最終準備書面第2部という〕第6〔35~38頁〕参照)。
例えば、原告小説1のシークエンス1(19~53頁)は、「田沼が将軍家治の日光社参実現に深く関わった」ストーリーが問題とされているが、この19~53頁でこのストーリー(すなわち主系のストーリー)だけが描かれている訳ではなく、途中で35頁からはこの主系のストーリーとは別の傍系のストーリー、つまり田沼が推進した倹約に対する悪評判や倹約中の出来事が挿入され描かれているが、上告人は、後者のストーリーを主張する積りはなく、前者のストーリーのみを主張している。これに対し、被控訴人が、被控訴人準備書面(6)において、原告小説に描かれている傍系のストーリーを取り上げ(別紙作品対照表において青色で表示した部分参照)、被告番組と類似していないと反論したが、これが的外れなことは控訴人最終準備書面第2部37~38頁で明らかにした通りである。
ウ、小括
以上の結果、例えば、原告小説1のシークエンス1では、以下の左欄の通り、このシークエンスのストーリーの主題を「田沼が家治の日光社参実現に深く関わった」と設定し、この主題に沿って、この主題にふさわしい題材(素材=出来事)を選択し、その複数の出来事をこの主題の発端・導入部分、展開部分、展開の続き、結末部分として組み合わせた(その詳細は控訴人最終準備書面第2部第3、1、(1)〔4~6頁〕参照)。
これに対し、被告番組1は、以下の右欄の通り、4つの出来事を選択・配列した番組を制作した。両作品の「複数の出来事の組み合わせ」が類似していることは一目瞭然である(被上告人も、一審で原告小説のシークエンスの翻案権侵害の論点において、両作品のストーリーの類似性について、法律論の次元では「表現方法と表現自体を異にし、共通性を欠く」と争ったが、しかし事実論の次元では両作品のストーリーが同一であることは一度も争わなかった〔一審判決添付の主張対照表の【ストーリー】参照〕。

番号
原告小説1の表現(頁と行は原告小説1のもの)
被告番組1の表現(頁と行は、甲第8号証=テープ起しのもの)
家重、家治、二代にわたる将軍親子の恩顧にこたえるため、田沼は家治の、日光東照宮参詣費用の二十万両の捻出、というプランをおもいたった。
(19頁10~11行目)

(1)、田沼は二代にわたって徳川家にお世話になった恩返しとして、この大プロジェクトにとりかかります。
(9頁13~15行目)
(2)、日光社参には莫大な費用がかかりました。その費用はなんと二十万両以上。
(9頁27~28行目)
(1)、財政専管の若年寄になって財政状態を調べ、二十万両を捻出してもらいたいと田沼は水野にいった。
(20頁1~2行目)
      
(2)、十一月十五日、水野忠友は五千石加増されて一万三千石の大名となり、若年寄にすすんだ。若年寄は数人いた。水野は月番を免除され、勝手掛若年寄、財政を専管する若年寄となった。
(24頁3~5行目)

田沼意次は、同僚の水野忠友(ただとも)に目を付けた。田沼は水野を、勝手掛若年寄、すなわち財政専門の「表」の役人に転任させたのだ。
(10頁4~5行目)
・・・水野は言った。
「されば、二十万両、なんとか倹約によってを捻りだしてみましょう」
(34頁1~2行目)
宝暦五年にさだめられた行政費の総額は十三万四千八百七十両だった。歳入の一割にも満たないが、水野はあらためてこれをチェックした。‥‥水野は五年かけて四万両ずつひねりだす、というのをえらんだ。
水野は勘定奉行以下の役人に命じて四万両削減の試案、倹約案をつくらせた。
(34頁8~14行目)

水野は幕府の財政に無駄がないかを徹底的に調べあげ、歳出を切り詰めていきました。
(10頁7~8行目)

家治は日光東照宮参詣をようやくタイムテーブルにのせた田沼の骨折りを賞して、田沼を正式の老中にすすめた。
(53頁5~7行目)

その功績が認められ、田沼意次は五十四歳で老中へと昇進した。
(10頁10~11行目)

(4)、小括
 上記判断基準の第1の要件である「著作物から法的『ストーリー』を特定する」を原告小説に適用した結果は、最終準備書面第2部第3(4~18頁)で明らかにした通りである。 

3、上記判断基準の本件への適用2(原告小説のシークエンスの法的「ストーリーの創作性」の有無)

(1)、法的「ストーリーの創作性」の意義
 上記判断基準の第2の要件である「原告小説の法的『ストーリーの創作性』」の意義は、第6、7の予備的考察で吟味検討した通り、
第1に、著作物の創作性とは、「他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるもの」ではなく、著作者の個性がなんらかの形で現れていれば足りるものである。それゆえ、
第2に、ストーリーの創作性とは、「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」において、「個々の出来事の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れていること、言い換えれば「誰がやっても同様なものになる」のでない限り創作性が肯定される。

(2)、法的「ストーリーの創作性」の具体的な判断方法
ア、参考例:プログラムの創作性
 この点、「ストーリーの創作性」の有無を具体的に判断する上で参考になるのが、予備的考察の第6、6、(2)で前述した通り、プログラムの創作性について述べた著作権法逐条講義の次の記述である。
《誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純なプログラムを除き、ほとんどのプログラムは指定の組み合わせ方等に作成者の個性が現れますので創作性が認められ》る。(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」126頁)
 すわなち、プログラムの「指定(素材)の組み合わせ方」において、
①.原則として、ほとんどのプログラムは作成者の個性が現れる。よって、創作性が認められる。
②.例外的に、「誰が作成しても『指定(素材)の組み合わせ方』が同様になってしまうような極めて単純なプログラム」は創作性が否定される。
イ、著作物一般の創作性
 重要なことはこの考え方がプログラムの創作性に限定されないことである。第6、6、(2)で以下の文献を紹介して考察した通り、著作物一般において「素材の組み合わせ方」の個性を問題にする場面で基本的に妥当する。
「このように素材の選択または配列に独創性を認めることは、(代理人注:編集著作物に限らず)著作物全般に通ずる性質でもある。著作物は表現を保護するということは、内部的・内面的な組成方法すなわちコンポジションをも独創性があれば表現形式として保護されることになる。」(中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)60頁〔別紙10の1〕)
ウ、ストーリーの創作性
ストーリーの創作性についても著作物一般のそれと同様に考えてよく、従って、ストーリーの「出来事(素材)の組み合わせ方」において、次のように言うことができる。
①.原則として、ほとんどのストーリーは作成者の個性が現れる。よって、創作性が認められる。
②.例外的に、「誰が作成しても『出来事(素材)の組み合わせ方』が同様になってしまうような極めて単純なストーリー」は創作性が否定される。

(3)、「誰が作成しても『出来事(素材)の組み合わせ方』が同様になってしまうような極めて単純なストーリー」とはいかなる場合か
そこで、問題は、例外事由である「極めて単純なストーリー」か否かはいかにして判断すべきかである。その基準のひとつが、先行著作物による検証である。すなわちもし「極めて単純なストーリー」であるならば、そのようなものは「原告小説に先行する著作物中に同一のストーリーつまり同一の『出来事の組み合わせ方』が存在している」筈だからである。そして、創作性の有無の証明は原告(上告人)の立証責任だが、上記の例外事由の存在の立証責任は被告(被上告人)にある。よって、被上告人から、そのような先行著作物による検証に成功しない限り、原告小説のストーリーの創作性は肯定される。
 被上告人は、本裁判においてくり返し、原告小説のストーリーの要素である「個々の出来事」について、原告小説に先行する著作物中に同一の記述があると主張・立証してきたが(そもそも上告人がこの点を争ったことは一度もない)、しかし、原告小説のストーリーそれ自体である「出来事の組み合わせ方」について、先行著作物中に同一の組み合わせ方があるという主張・立証は被上告人からついに一度もなかった。
従って、この点からだけでも、原告小説のシークエンスの法的「ストーリーの創作性」は肯定される。

(4)、原告小説のシークエンスの法的「ストーリーの創作性」の具体的内容
 前記(3)から、原告小説のシークエンスの法的「ストーリーの創作性」は既に立証済みだが、駄目押しの意味で、原告小説のシークエンスの法的「ストーリーの創作性」の具体的内容を明らかにする。それが、控訴人最終準備書面第2部第7、ストーリーの創作性(38~42頁)の主張である。また、それを立証したのが甲27原告陳述書(4)である。

4、上記判断基準の本件への適用3(両作品の法的「ストーリー」の類似性)

(1)、法的「類似性」の意義
 厳密には、両作品の「類似性」も事実の次元と法律の次元の2つの概念がある。そこで今、法的「類似性」の意義について確認すると、判例は複製権侵害について次のように判示する。
①《著作物の複製とは、既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製することをいうところ(最高裁昭和53年9月7日第一小法廷判決参照)、複製というためには、第三者の作品が漫画の特定の画面に描かれた登場人物の絵と細部まで一致することを要するものではなく、その特徴から当該登場人物を描いたものであることを知り得るものであれば足りるというべきである。》(「ポパイのキャラクター著作権侵害事件」平成9年7月17日最高裁判所第一小法廷判決
②《著作物複製の有無は、創作にかかる具体的表現が製作物中に利用されたか否かにあり、末節において多少の修正等が施されていても、当該作品が原作の再現と感知させるものはなお複製とみるのが相当であ(る)。》(「仏壇彫刻複製事件」昭和54年7月9日神戸地方裁判所姫路支部
被告書籍のうち対照表左欄記載の各記述部分が、原告著作物一の同右欄記載の記述部分の複製に当たるというためには、被告らが原告著作物一に接し、これに依拠して同左欄記載の各記述部分を執筆したことのほかに、右各記述部分が原告著作物一の対応部分と著作物としての同一性、すなわち著作物の本質的特徴を感得しうる程度の同一性を有することを要するというべきである。》(「多摩地方史跡巡りガイドブック出版事件」平成13年1月23日東京地方裁判所)
すなわち、
①.両作品の表現形式の「細部まで一致することを要するものではなく、被告作品のその特徴から原告作品の登場人物を描いたものであることを知り得るものであれば足りる」こと、
②.要は「創作にかかる具体的表現が製作物中に利用されたか否かにあり」、被告作品の「末節において多少の修正等が施されていても、当該作品が原告作品の再現と感知させるものはなお複製」であること、
③.「著作物の本質的特徴を感得しうる程度の同一性を有すること」
である。複製権侵害における両作品の法的「類似性」に関するこの考え方は基本的に翻案権侵害でも同様である。
(2)、本件翻案権侵害における法的「両作品のストーリーの類似性」の意義
 従って、
本件の翻案権侵害における法的な「原告作品と被告作品のストーリーの類似性」とは次のことを意味する。
(a)、両作品のストーリーの細部つまり個々の要素及びその配列・順番の細部まで一致することを要するものではなく、被告番組のストーリーの特徴から、原告小説のストーリーであることが知り得るものであれば足りること、
(b)、被告番組のストーリーの末節において多少の修正等が施されていても、被告番組のストーリーが原告小説のストーリーの再現と感知させるものはなお翻案」であること、
(c)、被告番組のストーリーが、「原告小説のストーリーの本質的特徴を感得しうる程度の同一性を有すること」
(3)、本件の両作品のストーリーの類似性の検討
 控訴人最終準備書面第2部別紙作品対照表に記載された原告小説のストーリーの要素である出来事の配列は、以下の3つを除いて、すべて被告番組の配列と一致するので、文句なく類似性が肯定される。
①.原告小説1のシークエンス3
②.原告小説2のシークエンス3
③.原告小説3のシークエンス2
 その上、上記3つについても、両作品の出来事の配列の違いは、以下の表のように評価することができる。

シーク
エンス
該当部分
その評価
原告
小説1
ⓑとⓒの配列が逆。つまり、
被告番組は
ⓐ→ⓒ→ⓑ→ⓓ
ⓑは新御用金令の狙い(目的)について、ⓒは新御用金令の内容について記述したもの。
出来事が展開する場合と異なり、法令の目的や内容について、記述の順番はそれほど重要な意味は持たない。どちらが先でもかまわない。

原告
小説2
(2)とⓒの配列が逆。

ⓒは勅許を取りにいく理由を述べたもの。
出来事を記述する場合と異なり、勅許を取りにいく理由をどこで述べるかはそれほど重要な問題ではなく、従って、これについての記述の順番が多少かわってもかまわない。
ⓔとⓕが配列が逆。

ⓔは孝明天皇の人物を紹介したもの。
出来事を記述する場合と異なり、人物紹介をどこで述べるかはそれほど重要な問題ではなく、従って、これについての記述の順番が多少かわってもかまわない。
原告
小説3
ⓓとⓔが配列が逆。つまり、
被告番組は
ⓐ→ⓑ→ⓒ→ⓔ→ⓓ

ⓓとⓔはいずれも、「将軍の父に官職をあげてもらえないか、調所が働きかけをした」行為の結果を記述したもの。
この2つの結果のどちらを先に記述するか、その順番に重要な意味はない。どちらが先でもかまわない。

すなわち、この3つについて、
(a)、被告番組のストーリーの特徴から、原告小説のストーリーであることが知り得るものであれば足りること、
(b)、被告番組のストーリーの末節において多少の修正等が施されていても、被告番組のストーリーが原告小説のストーリーの再現と感知させるものであること、
(c)、被告番組のストーリーは、原告小説のストーリーの本質的特徴を感得しうる程度の同一性を有すること
が認められる。従って、これら3つの場合においても、両作品のストーリーの類似性は肯定される。

(4)、小括
 以上から、両作品のストーリーの類似性はすべて認められる。

5、上記判断基準の本件への適用4(依拠性)

 被上告人が、被告番組の制作にあたって原告小説に依拠したことは、訴状で既述した通り、
①.原告小説1については、被上告人自らが上告人に原告小説に準拠して制作したこと、その結果《今回のことを、一制作者として、二度同じ過ちを犯さないよう胆に銘じます》(甲13.5枚目。)と謝罪したこと(その詳細は甲1原告陳述書(1)(1)24~25頁)、
②.原告小説2について、被上告人自らが上告人に原告小説2の利用の申し出をした事実(その詳細は甲1原告陳述書(1)(1)25頁。甲13)、
③.原告小説3について、被上告人自らが上告人に原告小説3の利用の申し出をした事実(その詳細は甲1原告陳述書(1)(1)23~24頁。甲11の1枚目・3枚目)、
から明らかである。

6、小括

 以上の通り、本書面は、予備的考察第の第6の最後を、
《以上で予備的考察を終わり、以下、第4、3で予告した、「一般的確実性と具体的妥当性の調和」を実現する、新たな翻案権侵害の判断基準を示し、もってこれを本件に適用して、具体的妥当性を満たす結論を示す本論の作業を実行する。》
と締め括り、本論の第7において、
「一般的確実性と具体的妥当性の調和」を実現する、翻案権侵害の新たな判断基準である4つの要件を示し、もってこれを本件に適用した結果、本件は4つの要件を全て満たすものであることが判明した。
従って、本件翻案権侵害の論点において、具体的妥当性を満たす結論として翻案権侵害の成立が認められる。
なお、付言するに、翻案権侵害において、「本件のように、原著作物(原告小説)に対し、翻案した二次的著作物(被告番組)のほうが分量的に圧倒的に少なく、原著作物の骨格が表現されているだけのような場合にはもはや翻案とは呼ばないではないか」という素朴な疑問を抱くとしたら、それは誤解である。なぜなら、著作権法上、自らの創作的表現を追加しないダイジェスト(要約)作成も翻案とされており(加戸守行「著作権法逐条講義」214頁)、この意味で、翻案の核心部分は「原著作物の骨格・エッセンス」を利用することであって、それ以上、自らの創作的表現をどれだけ追加するかは問わないものだからである。

7、原判決の誤りについて

(1)、上告人が主張した原告小説のシークエンスのストーリーの整理は「時期に遅れた攻撃防御方法である」か
ア、検討
その概略は第4、2で第4の訴えとして前述したが、上告人は控訴人準備書面(2)2で、上告人の主張変更が「時期に遅れた攻撃防御方法」の3つの要件の全てに該当しないことを明らかにした。
 これに対し原判決はこれを全て否定したが、しかし、以下に述べる通り、原判決は誤っている。
①.「時期に後れて提出されたこと」
 この点、原判決は《上記変更が,当審の第4回弁論準備手続期日(平成28年1月18日)においてなされた》(19頁5~6行目)と判示した。
しかし、これは上告人の主張の変更を記載した控訴人最終準備書面第2部が裁判所で陳述扱いされた時点のことであって、同書面が裁判所と被上告人に提出されたのはそれより2ヶ月近く前の平成27年11月27日である(別紙14受領書)。なおかつ、上告人の主張の変更を記載した最初の書面が裁判所と被上告人に提出されたのはそれより10日前の平成27年11月18日である(別紙15受領書)。この書面を受け取った被上告人が、第4回弁論準備手続期日(平成28年1月18日)までに、その反論を準備し、提出したことは被上告人作成の平成28年1月18日付準備書面(4)の冒頭に明記されている。すなわち、上告人の主張変更がなされ、裁判所がこれを読み、被上告人がこれに対する反論が可能になった時点は平成27年11月18日である。
 また、原判決は《本件訴訟の提起は平成25年6月12日であったこと,上記変更までに既に2年6か月も審理が継続されており,上記変更を除けば当事者の主張立証はほぼ尽きていた》(19頁6~8行目)と判示した。
 しかし、第4、2の脚注で前述した通り、平成25年6月12日の本件訴訟の提起後1年8か月後の一審判決までの間、一審判決で示された内容の通り、被上告人の反論に沿って、もっぱら「上告人の主張するストーリーは、アイデア・思想または事実にすぎない」という本題以前の論点をめぐって審理が行われただけだった。これに対し、原判決は次の通り判示した。
《原審においても,原告各小説の各ストーリーの創作性については,原判決別紙主張対照表の「原告の主張」欄及び「被告の主張」欄に創作性に関する主張及び反論が摘示されているとおり,原告各小説の各ストーリーと被告各番組の各ストーリーとの類否については,原判決別紙主張対照表の「原告の主張」欄及び「被告の主張」欄に類似性に関する主張及び反論が摘示されているとおり,実質的に審理されていたものである》(19頁(3))
 しかし、まさしく一審で行ったことは、訴状で上告人が主張している内容を、一審判決別紙主張対照表として完成させることだけであって、それ以上、上告人主張のストーリーの特定、創作性及び類似性をめぐって、実質的な検討をおこなったことは一度もない(むろんその記録もない)。
以上の通り、一審では判決に最低限必要な要件事実の適示を主張対照表として完成させただけであって、前記の上告人の主張の変更に関連する実質的な審理の実施は皆無だった。これが審理の実態である。
 そして、両作品のストーリーの類似性をめぐり、裁判所より「上告人主張のストーリーは果して、本当に原告小説のシークエンスのストーリーであるか」という問題提起がなされ、原告小説のシークエンスのストーリーを吟味する実質的な審理が行われたのは平成27年9月17日の二審裁判所の準備手続期日が最初であった。
 従って、両作品のストーリーの中身について実質的な審理が始まってまもなく提出された上記主張変更は「時期に後れて提出されたこと」に該当しないことは明らかである。

②.「後れたことが当事者の故意または重過失に基づくこと」
 この点、原判決は《創作性のある著作物を変更し,類似していると主張する被控訴人の著作物を変更することは,請求の根幹を覆すものであるから,控訴審である当審の終了間際にかかる変更を主張することが時機に後れていることについて,故意又は重過失がないとはいえない》(20頁4~7行目)と判示した。
 しかし、上告人の変更は、単に、同一のストーリーを構成する要素の一部をより正確なものに仕上げただけのことであって、原告小説のシークエンスのストーリー自体はそれ以前と同一である。従って、請求の根幹は不変であり、揺るぎない。この意味で、創作性のある著作物を変更したことも,類似していると主張する被控訴人の著作物を変更したことも一度もない。
 さらに、前述のとおり上告人の主張変更は原審終結に先立つこと5ヶ月も前のことであって、《当審の終了間際》ではない。
 
③.「その攻撃防御方法をこれから審理すると訴訟の完結を遅延してしまうこと」
 この点、原判決は《上記変更を許せば創作性の有無及び類否に関する審理を再び行わざるを得ず,これにより訴訟の完結を遅延させることが明らかである。》(19頁9~11行目)と判示した。
 しかし、上告人の変更は原告小説と被告番組の表現からシークエンスのストーリーの要素を再吟味した結果、一部分を修正して取り上げ、記述順に並べただけのものである。従って、その証拠調べも本主張の修正箇所に表記された該当頁該当行を原告小説(甲2~3)と被告番組(甲8~10)と見比べて照らし合わせれば済むことであり、わずかな時間しか要しない。
 従って、上記変更により「その攻撃防御方法をこれから審理すると訴訟の完結を遅延してしまうこと」にならないのも明らかである。
 これに対し、被上告人は本主張を認めると、上告人が修正した「登場人物の出来事」について、それが歴史的事実であるかどうかを確認するため《関連する文献や資料の有無の再度の調査・収集を行うことを強いられることになる。そして収集した文献・資料を検討した上で、新たに追加された部分に対する反論と書証の提出を行うことになる。》(準備書面(4)7頁下から4~末行)と反論したが、これが的外れの主張であることは以下の通りである。
 すなわち、控訴人は、シークエンスのストーリーの創作性は、ストーリーを構成する要素である「登場人物の出来事」の選択とその配列の仕方の点にあると終始主張しているのであって[19]、個々の「登場人物の出来事」をストーリーから切り離して、個別に、独立した表現形式として著作権法上の保護を求めているのではない。従って、個々の「登場人物の出来事」を個別に、独立した表現形式として著作権法上の保護を求めていることを前提とした被上告人の上記反論は「主張自体失当」というほかなく、上告人が主張するストーリーの創作性を判断するために、このような証拠調べをする必要は全くない。

イ、付言
 上告人代理人は、かつて、本件と同様の訴訟経過を辿った著作権裁判を担当したことがある。ときめきメモリアルメモリーカード事件[20]である。このとき、一審裁判所は「メモリーカード」がゲームのストーリーに与える影響という改変の本質的な議論に全く入らず、形式的な理由でもって請求棄却判決を言い渡した。
 そこで、二審に至り、初めてこの本質的な議論が始まったとき、上告人代理人は、その検討の中で一審では詰め切れていなかった問題点が多々あることに気がつき、大幅に整理・補充して主張を追加した。平成10年12月16日の審理終結の3ヶ月前から終結当日までの間のことだった。この時、裁判所が「時期に遅れた攻撃防御方法」を全く口にしなかったのは具体的妥当性の実現を念頭に置いていたからである。その結果、この二審判決は著作権法の歴史に残る重要判例の1つとなり、最高裁もこれを肯定した。
「一般的確実性と具体的妥当性という2つの理想の調和」の実現を目指す者にとって、このような訴訟運営は当然のことであり、かつてこのような経験した上告人代理人にとって、今回の原判決には驚きを禁じ得ない。

(2)、「ストーリーの創作性」が認められるためには何が必要か
 この点、原判決は上告人の主張を批判して、次のように判示した。
原告各小説は歴史を題材とした小説であるから,5つのWを備えた出来事を複数組み合わせて配列しただけでは,歴史上の事実等の経過を示したものにすぎないこと,あるいは,これらの事実等についての見解や歴史観を示すものにすぎないことがあるから,常に著作権法の保護の対象となるとはいえない。控訴人主張に係る各ストーリーに創作性があり,事実の選択や配列が表現上の本質的特徴を基礎付けるというためには,5つのWを備えた出来事を複数組み合わせて配列することだけでは足りず,少なくとも,事実の選択や配列に創作性が発揮されているといえなければならない。》(21頁5~12行目)
 しかし、これは法的「創作性」の意義も正しく理解していないため、その結果、法的「ストーリーの創作性」の意義も誤ってしまったものである。
 第6、3で前述した通り、法的「創作性」の有無の具体的な判断は、著作物の「素材の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れているかどうかで判断するのが適切であり、これで必要十分である。これを踏まれば、法的「ストーリーの創作性」の意義は、第6、7で前述したが、極めて重要な内容のため重複を厭わず再掲すると、以下の通りである。
①.法的「ストーリー」とは、事実的「ストーリー」と同様、「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」のことをいう。
②.法的「創作性」とは、著作物の「素材の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れている場合に認めることができる。
言うまでもなく、法的「ストーリー」が翻案権の保護の対象となるためには、これが創作性を備えていることが必要だが、その場合の「ストーリーの個性=創作性」の程度については、前記6で述べた通り、文芸や芸術のプロの世界で求められるような「他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるもの」ではなく、およそ著作者の個性がなんらかの形で現れていれば足りるものである。
以上から、法的「ストーリーの個性=創作性」とは次のように言うことができる――「個々の出来事が5つのWを備えていて、そのような複数の出来事の組み合わせ」において、「個々の出来事の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れていること、言い換えれば「誰がやっても同様なものになる」のでない限り創作性が肯定される。
 一審・原審裁判所がくり返し誤謬に陥る危険があるので、何度でもくり返し主張するが、ストーリーの創作性とは、ストーリーを構成する出来事自体の独自性にはなく、個々の出来事の選択とその組み合わせの仕方にある。従って、ストーリーを構成する出来事自体が歴史的事実であろうが、フィクションであろうが、そのちがいはストーリーの創作性の有無を判断する上で何も影響しない。
 以上から、歴史小説であろうとも、その「ストーリーの創作性」が認められるためには、「個々の出来事の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れていれば足りる。
 その具体的な判断の方法については、第7,3で詳述した通りである。

8、結語

 以上の通り、ストーリーに関する翻案権侵害の新たな判断基準である4つの要件を示し、もってこれを本件に適用した結果、本件は4つの要件を全て満たすものであることが判明した。
従って、ストーリーに関する翻案権侵害の論点において、具体的妥当性を満たす結論として翻案権侵害の成立が認められる。

第8、本件翻案権侵害以外の論点


1、人物設定論

(1)、人物設定の意義
 小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等の世界で、人物設定とは、作品の登場人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成することをいう(甲19の2。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」52頁参照)。
 人物設定は小説、映画、漫画等の執筆・制作において、どのような意義を付与されているか。一言で言って、それはストーリー(筋。プロット。構成)と並ぶ作品の出来を左右する二大要素である[21]
 従って、下記の通り、「著作物のエッセンスを指す内面的表現形式」の代表的例示として「ストーリー」を掲げるのであれば、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等においては、「ストーリー」と並んで「人物設定」もまた《著作物のエッセンス》を指す内面的表現形式というべきである。
《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」176頁下から9行目以下)
 従って、これまでに「ストーリーの翻案権侵害」として述べてきた議論の殆どがそのまま妥当する。
以下、念のため、誤謬に陥りやすい重要な論点だけ取り上げる。

(2)、人物設定でも創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある
第6、3、(5)、イで、ストーリーに関する創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にあることを前述した。これは「人物設定」にもそのまま当てはまる。
すなわち、一般に、原告小説のような言語著作物の中から或る要素を取り出して、これが人物設定に関する著作者の「思想、アイデアすぎない」と指摘することは常に可能である。なぜなら、そもそもどんな言語著作物でも、人物設定に関して、その中には質的に異なる次元において、
①.主題(どんな思想、アイデアに基づいて人物設定を構想したのか)
②.人物設定(人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成すること)
③.具体的表現(人物設定を具体的に記述した表現)
の要素がいずれも備わっているからであり(野田高悟「シナリオ構造論」102~125頁参照)、言語著作物の中から、①の人物設定に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すだけのことだからである。言い換えれば、そもそもどんな言語著作物でも、その中から、「人物設定」に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すことも可能であれば、「著作権法で保護する人物設定」に属する要素を取り出すことも可能である。つまり、言語著作物の中で、「著作権法で保護する人物設定」と人物設定に関する著作者の「思想、アイデア」は併存するのであり、両者の存在は排他的なものでなく、両立する関係に立つ。
 この構造を正しく理解しないと、上告人は本訴において、「人物設定の創作」をアイデアでもなく、事実それ自体でもない、いわば「ストーリーの創作」と同一レベルの創作行為として位置づけ、その無断使用を翻案権侵害として主張しているのに、「あれっ、人物設定に関する思想、アイデアが見つかったよ」として、いとも簡単に上告人の主張を斥けてしまうという誤りをおかす惧れがある。

(3)、本件の人物設定に関する翻案権侵害の判断基準
 これまで検討してきたストーリーに関する翻案権侵害の判断基準を参考にして、原告小説の人物設定の翻案を問う翻案権侵害の判断基準は次の通りとなる。
①.原告作品の(内面的)表現形式として、原告小説2から法的「人物設定」すなわち「登場人物に付与された
具体的な性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等」(以下、「登場人物に付与された具体的な性格等」という)を特定すること(内面的表現形式)。
②.前記①で特定した法的「人物設定」において、「
具体的な性格等の設定」に著作者の個性がなんらかの形で現れていること(創作性)。
③.被告番組2の(内面的)表現形式として特定した「登場人物に付与された
具体的な性格等」が前記①で特定した原告小説2の「登場人物に付与された具体的な性格等」と類似すること(類似性)。
④.前記③の被告番組2の「登場人物に付与された
具体的な性格等」が原告小説2に依拠して作成されたこと(依拠性)。
 これが人物設定という「新しい酒」を盛るための「新しくてしっかりした皮袋」である。
 そして、この判断基準を本件に適用したのが控訴理由書第3、5~7(40~42頁)である。

(4)、原判決の誤り
 これに対し、原判決は本件の法的「人物設定」をすべて否定した。しかし、以下に述べる通り、これらの判断は誤っている。
ア、徳川斉昭
(ア)、斉昭に関する原告小説2の記述に対し、原判決は《歴史上の事実又はそれについての見解である》(35頁ア)と判示した。
しかし、「(斉昭は烈公と敬称され」「斉昭は・・・誰とでも見境なく争う、・・・男」は斉昭に関する様々な事実の中から上告人が選択し、取り上げた具体的な事実であって、いわゆる「歴史上の事実自体」でも、「歴史上の事実に関する見解」でもない。
(イ)、また、原告小説2の「誰とでも見境なく争う」の記述を《相手との力関係などを考慮せずに浅慮にも争うことを表現するに当たっての,ありふれた表現である。したがって,共通する具体的表現に創作性があるとはいえない。》(35頁イ)と判示した。
しかし、「人物設定」で重要なことは、いかに個性的な人物像を造型するかである。実在人物の場合であれば、それまでに指摘されたことがなかったような新しい人物像を提示することである。それ以上、人物像の具体的な表現の仕方が「ありふれた」表現かどうかは問題ではない(ストーリーを構成する個々の出来事の表現の仕方が「ありふれた」表現かどうかは問題でないのと同じである)。この点、原告小説2の「誰とでも見境なく争う」はこれまで誰も指摘したことがなかった新しい人物像の設定であり、この点だけで人物設定の「創作性」としては十分である。従って、人物設定において、「誰とでも見境なく争う」という表現自体が「ありふれた表現」であるかどうかは問題にならない。
(ウ)、さらに、人物設定の「創作性」について、原判決は《誰とでも見境なく争う人物であったことは,以下のとおり,①「日本開国史」(乙21),②「堀田正睦(二)」(乙46)及び③「堀田正睦」(乙47)にも記載されているから,歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-1の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(36頁エ)と判示した。
 しかし、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。第6、6で前述したとおり、法的「創作性」とは次のことを意味するからである。
《他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるものではありませんし、また類似あるいは同一の内容のものであっても、その間に模倣、盗用の関係がなく、それぞれに別に創作されたものであれば、いずれも独自の著作物となります。》(「著作権法ハンドブック」1991年度版8頁)
《この場合の独創性は、他に類例のないような純粋にして厳密な独創性をいうのではない。その思考に独自的創作の努力が払われ、その成果に独自性が表われていればよい。》(秋吉稔弘(代表)「著作権関係事件の研究」307頁)
 従って、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がない」限り、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。そして、「その間に模倣、盗用の関係がないか」どうかは被上告人が立証する責任を負うべきものであるが、本訴において被上告人がその証明を果していないことは明らかである。

イ、堀田正睦
(ア)、堀田に関する原告小説2の記述に対し、原判決は《ここでは「ランペ蘭癖大名,西洋かぶれの大名ではなく」といった人物設定は表現されていない。このように実際に表現されていない人物設定に係る控訴人の主張は,その前提がなく,失当である》(36頁ア)と判示した。
しかし、堀田に関する原告小説2の記述の核心部分は「事務処理能力のある者(実務能力に長けた人物)」である(控訴理由書40頁5②)。前記アでも述べた通り、堀田に関する様々な事実の中から上告人が選択し、取り上げた具体的な事実が「事務処理能力のある者」であって、この事実こそ、それまでの「ランペ蘭癖大名,西洋かぶれの大名」という人物像にはなかった新しい人物像であった。従って、この点で人物設定の「創作性」が認められ、被告番組との類似性も認められると解される。
(イ)、また、人物設定の「創作性」について、原判決は《堀田正睦が事務処理能力ないし実務能力に長けていたという評価は,下のとおり,①「幕閣僚伝乙15)び②「堀田正睦((乙16)にも記載されているから,歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-2の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(37頁オ)と判示した。
 しかし、ア、徳川斉昭でも述べた通り、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。また、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がある」という証明を被上告人はしておらず、それゆえ、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。

ウ、阿部正弘
(ア)、阿部に関する原告小説2の記述に対し、原判決は《阿部正弘の人物設定を,開明的な政治家ではなく,鎖国体制維持の頑固な保守主義者,すなわち,攘夷鎖国派の人物として描いたとする点は,歴史上の事実又はそれについての見解であるから,その具体的記述が,創作的に表現されたものでない限り,著者の創作意図又はアイデアにすぎず,著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(37頁ア)と判示した。
しかし、原告小説2は、阿部を単に「頑固な保守主義者」とだけ表現したのではなく、あくまでも以下のような具体的な事実を示して、頑固な保守主義者」の具体的な内容を明らかにしたものである。
《「国体の護持、攘夷鎖国を外交の基本理念に据えた政治家」「通商条約の締結拒否を鎖国体制堅持の第二の防波堤にしようと考え」た、「鎖国体制の堅持を侵すべからざる不動の外交基本理念に据えた、かたくなな体制派、頑固な保守主義者」という人物として設定。》(控訴理由書40頁末行③)
(イ)、また、原判決は《原告小説2と被告番組2の対応する具体的な表現は異なっており,共通性は認められない。》(37頁イ)と判示した。
 しかし、人物設定の翻案権侵害とは、前記(3)で述べた通り、「登場人物に付与された具体的な性格等」の無断利用のことである。それゆえ、人物設定の類似性とは「登場人物に付与された具体的な性格等」が類似しているかどうかを問うことであって、両作品の具体的な表現が類似しているかどうかを問うことではない(翻案権侵害の本質が複製権のように、直接目で見、耳で聞くことができる具体的な表現(外面的表現形式)の侵害ではなく、直接、目で見たり、耳で聞いたりできない内面的表現形式の侵害であることを思い起こすべきである)。従って、本件で言えば、「通商条約の締結を拒否し、鎖国体制を堅持しようとしていた頑固な保守主義者」という具体的な人物設定の点で両作品が類似しているかどうかを問うべきである。そうしたとき、両作品の類似性は肯定される。
(ウ)、また、人物設定の「創作性」について、原判決は《阿部正弘が攘夷鎖国派であったことは,以下のとおり,「日本開国史」(乙21)にも記載されているから,既に存在していた評価の1つにすぎず,歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-3の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(37頁エ)と判示した。
 しかし、ア、徳川斉昭でも述べた通り、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。また、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がある」という証明を被上告人はしておらず、それゆえ、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。

エ、ハリス
 ハリスに対する原判決のロジックはウ、阿部正弘に対するそれと同様である。すなわち、
(ア)、ハリスに関する原告小説2の記述に対し、原判決は《ハリスの人物設定を,日本のために尽くした善人ではなく,傍若無人で喧嘩腰の人物として描いたとする点は,歴史上の事実又はそれについての見解であるから,その具体的記述が,創作的に表現されたものでない限り,著者の創作意図又はアイデアにすぎず,著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(38頁ア)と判示した。
しかし、原告小説2は、ハリス単に「傍若無人で喧嘩腰の人物」とだけ表現したのではなく、あくまでも以下のような具体的な事実を示して、傍若無人で喧嘩腰の人物」の具体的な内容を明らかにしたものである。
《いっこうに怒りをしずめず、給仕が茶を運んでくると手を振って、「そんな茶など飲めるか」と荒々しくいい、御徒目付をさしては「出て行け」とののしり、何をいっても耳を傾けようとしない》傍若無人の人物として、「目をつむっておもむろに首を振り、「いいやそうではない」といわんばかりの仕草をして見せるのがハリスの反撃の前触れで、その仕草がはじまると、井上も岡田も身を縮ませて、ハリスの破れ鐘のような怒声が頭上をとおりすぎていくのを待たねばならなかった」喧嘩腰の人物として設定。》(控訴理由書41頁④)
(イ)、また、原判決は《原告小説2と被告番組2の対応する具体的な表現は異なっており,共通性は認められない。》(38頁イ)と判示した。
 しかし、人物設定の翻案権侵害とは、前記(3)で述べた通り、「登場人物に付与された具体的な性格等」の無断利用のことである。それゆえ、人物設定の類似性とは「登場人物に付与された具体的な性格等」が類似しているかどうかを問うことであって、両作品の具体的な表現が類似しているかどうかを問うことではない(翻案権侵害の本質が複製権のように、直接目で見、耳で聞くことができる具体的な表現(外面的表現形式)の侵害ではなく、直接、目で見たり、耳で聞いたりできない内面的表現形式の侵害であることを思い起こすべきである)。従って、本件で言えば、「交易不可という幕府の役人に対し、怒号を上げののしる傍若無人で喧嘩腰の人物」という具体的な人物設定の点で両作品が類似しているかどうかを問うべきである。そうしたとき、両作品の類似性は肯定されることが明らかである。
(ウ)、また、人物設定の「創作性」について、原判決は《ハリスが傍若無人で喧嘩腰であったことは,以下のとおり,①「堀田正(四24「横浜25にも載されてるから歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-4の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(38頁エ)と判示した。
 しかし、ア、徳川斉昭でも述べた通り、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。また、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がある」という証明を被上告人はしておらず、それゆえ、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。

オ、孝明天皇
(ア)、孝明天皇に関する原告小説2の記述に対し、原判決は《控訴人は,孝明天皇の人物設定を,幕府に好意的,強い攘夷主義者,皇権恢復の自覚をした人物ではなく,幕府に対抗心をむき出しにする,過激な攘夷主義者であり政治に敏感な人物であると強調し,また,積極的で攻撃的な政治的権力奪回の野心の持ち主として描いたと主張する。しかし,控訴人の主張する,原告小説2における対応する表現は,「(判決注:孝明天皇は)水戸学崇拝者も顔負けの過激な攘夷主義者で・・・」であるから,ここでは,幕府に対抗心をむき出しにし,政治に敏感で,積極的で攻撃的な政治的権力奪回の野心の持ち主といった人物設定は表現されていない。このように実際に表現されていない人物設定に係る控訴人の主張は,その前提がなく,失当である。》(36頁ア)と判示した。
しかし、孝明天皇に関する原告小説2の記述の核心部分は「《水戸学崇拝者も顔負けの過激な攘夷主義者》であり政治に敏感な人物として設定」したことである(控訴理由書41頁⑤)。前記アでも述べた通り、孝明天皇に関する様々な事実の中から上告人が選択し、取り上げた具体的な事実が「水戸学崇拝者も顔負けの過激な攘夷主義者」であって、この事実こそ、それまでの「幕府に好意的,強い攘夷主義者,皇権恢復の自覚をした」という人物像にはなかった新しい人物像であった。従って、この点で人物設定の「創作性」が認められ、被告番組との類似性も認められると解される。 
(イ)、また、原判決は《孝明天皇が過激な攘夷主義者であったとする点は,歴史上の事実又はそれについての見解であるから,その具体的記述が,創作的に表現されたものでない限り,著者の創作意図又はアイデアにすぎず,著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(39頁イ)と判示した。
 しかし、原告小説2は、孝明天皇単に「過激な攘夷主義者」とだけ表現したのではなく、物語の展開の中(573頁以下)で、この人物設定に従って孝明天皇の行動を具体的に表現したのである。この点は被告番組も同様である。
(ウ)、また、人物設定の「創作性」について、原判決は《孝明天皇が過激な攘夷主義者であったことは,以下のとおり,①「人質の日本史 陰の日本史」(乙18),②「孝明天皇」(乙19)及び③「社会科学討究 第29巻第1号」(乙20)にも記載されているから,歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-5の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(39頁エ)と判示した。
 しかし、ア、徳川斉昭でも述べた通り、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。また、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がある」という証明を被上告人はしておらず、それゆえ、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。

カ、将軍家定
(ア)、将軍家定に関する原告小説2の記述に対し、原判決は《控訴人は,原告小説2における徳川家定の人物設定を,馬鹿者ではなく,冷静に周りの状況を読める人物として描いたと主張する。しかし,控訴人の主張する,原告小説2における対応する表現は,「たしかに(判決注:家定は)頭はよくなかった。しかし馬鹿ではなかった。常識のあるごくふつうの男で,統治,国を治めるということに関していうなら,少なくとも自分に統治能力はない,余計なことはいわずに宿老に任せておくのがいいと判断する能力はもちあわせていた。」であるから,ここでは,冷静に周りの状況を読める人物といった人物設定は表現されていない。このように実際に表現されていない人物設定に係る控訴人の主張は,その前提がなく,失当である。》(40頁ア)と判示した。
しかし、控訴理由書で以下の通り主張しているように、上告人が「実際は冷静に回りの状況を読める人物」として主張したときの「冷静さ」とは「少なくとも自分には統治能力はない、余計なことはいわずに宿老に任せておくのがいいと判断する能力はもちあわせていた」というレベルの「冷静さ」のことであって、それ以上でもそれ以下でもない。
《「(家定は)馬鹿ではなかった。常識のあるごくふつうの男で、統治、国を治めるということに関していうなら、少なくとも自分には統治能力はない、余計なことはいわずに宿老に任せておくのがいいと判断する能力はもちあわせていた」という、実際は冷静に回りの状況を読める人物として設定。》(41頁⑥)
 従って、原判決の《ここでは,冷静に周りの状況を読める人物といった人物設定は表現されていない。》という認定が失当であることは明らかである。
(イ)、また、原判決は《家定が馬鹿ではなかったとする点は,歴史上の事実又はそれについての見解であるから,その具体的記述が,創作的に表現されたものでない限り,著者の創作意図又はアイデアにすぎず,著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(40頁イ)と判示した。
 しかし、原告小説2は、家定を単に「馬鹿ではなかった」とだけ表現したのではなく、むしろ「冷静に周りの状況を読める人物」として、物語の展開の中(とくに681頁以下「カ、カ、掃部を」)で、この人物設定に従って家定の行動を具体的に表現したのである。この点は被告番組も同様である。
(ウ)、また、原判決は《原告小説2と被告番組2の対応する具体的な表現は異なっており,共通性は認められない。》(41頁ウ)と判示した。
 しかし、人物設定の翻案権侵害とは、前記(3)で述べた通り、「登場人物に付与された具体的な性格等」の無断利用のことである。それゆえ、人物設定の類似性とは「登場人物に付与された具体的な性格等」が類似しているかどうかを問うことであって、両作品の具体的な表現が類似しているかどうかを問うことではない(翻案権侵害の本質が複製権のように、直接目で見、耳で聞くことができる具体的な表現(外面的表現形式)の侵害ではなく、直接、目で見たり、耳で聞いたりできない内面的表現形式の侵害であることを思い起こすべきである)。従って、本件で言えば、「冷静に周りの状況を読める人物」という具体的な人物設定の点で両作品が類似しているかどうかを問うべきである。そうしたとき、両作品の類似性は肯定されることが明らかである。
(エ)、また、人物設定の「創作性」について、原判決は《家定が馬鹿ではなかったという人物設定は,①以下のとおり,「幕末閣僚伝」(乙15)で採用するほか,②コメンテーターのA氏も採用する(甲1の19頁)から,歴史上の位置付け等においてありふれており,かかる人物設定が原告小説2-3-6の表現上の本質的特徴を基礎付けるともいえない。》(41頁オ)と判示した。
 しかし、第1に、家定の人物設定の核心は彼が「冷静に周りの状況を読める人物」であって、「馬鹿ではなかった」ではない。第2に、ア、徳川斉昭でも述べた通り、原判決は法的「創作性」の意義を誤っている。また、仮に上告人が作り上げた人物設定と似た人物設定をした者が既にいたとしても、「その間に模倣、盗用の関係がある」という証明を被上告人はしておらず、それゆえ、著作権法上、上告人の「創作性」が否定されることにはならない。

(5)、小括
 以上の通り、人物設定に関する翻案権侵害の新たな判断基準である4つの要件を示し、もってこれを本件に適用した結果、本件は4つの要件を全て満たすものであることが判明した。
従って、人物設定に関する翻案権侵害の論点において、具体的妥当性を満たす結論として翻案権侵害の成立が認められる。

2、エピソードの翻案

 原告小説2のエピソードの翻案の論点も、これまでに「ストーリーの翻案」として述べてきた議論がそのまま妥当する。
 これまで検討してきたストーリーに関する翻案権侵害の判断基準を、上記エピソードの翻案に適用したのが控訴理由書第3、9(42~45頁)である。
以上から、上記エピソードの翻案においても、結論として翻案権侵害の成立が認められる。

3、部分複製

(1)、問題の所在
ア、上告人の従前の主張
部分複製に関する上告人の従前の主張を整理すると、以下の通りである。
この論点に関する一審判決及び原判決の骨子は次の通りである――両作品に類似性が認められるとしても、その類似部分に次のいずれかが認められれば、それは「創作的表現」とは言えず、従って、複製権侵害は成立しない。
①.表現の選択の幅が極めて狭いこと。
②.ごくありふれた表現にすぎないこと
③.短文であること。
 これらの3点に対し、上告人は二審において、次の通り反論した――部分複製に関する両作品の類似部分は、
①に対して、原告小説の表現以外にも
他に様々な表現が可能があり、表現の選択の幅は極めて狭い》とは到底いえないこと
②に対して、もしありふれた表現であるとしたら、実際にも、同じ状況の同じ場面を同じ言い回しで表現した他の作品がほかにも数多くある筈だが、稀有にして見たことがないこと。
③に対して、短文でも言語著作物と認められる俳句の文字数は17文字であるが、本件の類似表現は17文字以上あるから、著作物性が認められるだけのまとまりを満たしていること。
 さらに、一審判決では、部分複製を2点を認めたが、なぜ、これだけが認められ、他がすべて認められなかったのか、それは裁判官の個人的思想に基づく結果であって、その二重の判断基準には合理性がないこと。
イ、一審判決と原判決の最大の問題点
 ところで、一審判決と原判決の最大の問題点は「表現の選択の幅が極めて狭い」とはいかなる場合を指すのか、及び「ごくありふれた表現にすぎない」とはいかなる場合を指すのか、その基準を全く明らかにしないまま、上告人の部分複製の主張は「表現の選択の幅が極めて狭い」「ごくありふれた表現にすぎない」と判断したことである。その結果、人々の胸の内に、いったい裁判所はどうやってこれらの微妙な判断したのだろうか、その判断はいかにして正当化されるだろうかという素朴な疑問が生まれて来るのは当然である。尤も、基準の不存在という点では上告人も同様であった。そこで、以下、本書面で明らかにした成果に基づき、二審で未解明だったこの基準の解明に取り組む。

(2)、法的「創作性」の意義と実例
ア、法的「創作性」の意義
 第6、6で前述した通り、著作権法が要求する法的「創作性」とは、決して《特許等産業財産権の分野で要求される厳格な「新規性」を要求しているものではなく、》(「著作権法ハンドブック」第9版6頁)、《他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるものではありません》(「著作権法ハンドブック」1991年度版8頁)、《ここにいう創作性も著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていればそれで十分だと考えられる。》(半田正夫「著作権法概説」第9版81頁)
 そして、「著作者の個性がになんらかの形で現れているかどうか」を判断する手がかりの1つが、「素材の選択と配列の仕方」に著作者の個性がなんらかの形で現れているかどうかである。
イ、法的「創作性」の実例
 その結果、具体的な創作物において、法的「創作性」が認められる場合とは例えば、以下のような場合である。
《創作性という点から見ましても、誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純なプログラムを除き、ほとんどのプログラムは指定の組み合わせ方等に作成者の個性が現れますので創作性が認められ、著作物に該当すると考えてよろしいでしょう。》(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」126頁)
《例えば、五十人の生徒が同一の静物を写生すれば、同じような絵が五十できますが、これらはそれぞれ別個の著作物として保護されます。》(「著作権法ハンドブック」1991年度版8頁)》
ウ、小括
 以上から導かれることは、法的「創作性」が認められる場合とは、
誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純な表現を除き、およそ作者の個性が現れるものである限り「創作性」を肯定できる。

(3)、「表現の選択の幅が極めて狭い」とはいかなる場合を指すのか。
 従って、以上を前提にして
表現の選択の幅が極めて狭い」とは、
①.或る状況・場面を表現する時にその表現方法がごく限られていて、なおかつ
②.既に、その状況・場面を表現する場合には、通常、それらの表現方法が使用されている場合を指すと解すべきである。
 なぜなら、このような場合にはもはや、表現者の個性を発揮する余地がないからである。例えば、
early in the moriingという状況を表現する場合、「朝早く」「早朝」くらいしか表現しようがない。リンカーンの「ゲティスバーグの演説」の一説の「government of the people, by the people, for the people」のpeopleを翻訳表現する場合、「人民の・・・」「国民の・・・」「人々の・・・」くらいにしか表現しようがない。このような場合には、それは「表現の選択の幅が極めて狭い」に該当する。実際にも、世の中では、これらの状況をあらわす表現は通常、このいずれかの表現に限られている。ほかにも、固有名詞や歴史的事実自体もおのずと「表現の選択の幅が極めて狭い」場合に該当する。

(4)、「ごくありふれた表現にすぎない」とはいかなる場合を指すのか
 実は「ごくありふれた表現にすぎないこと」と「表現の選択の幅が極めて狭いこと」とは同義である。なぜなら、ある状況をあらわす表現の選択の幅が極めて狭い」場合には、人々は否応なしに限られたそれらの表現を使うしかない。その結果、表現者はそこでは個性を発揮する余地もない。言い換えれば、それらの表現は「ごくありふれた表現にすぎない」と評価されるからである。
 従って、3と別に「ごくありふれた表現にすぎない」の判断基準を検討する必要はない。

(5)、原判決の誤り
 ところで、原判決は何の根拠を明らかにせず、次の通り、「創作性を認めることができないことは明らかである」と判示した。
ある事実を表現する方法に多数の選択肢があるとしても,その選択された表現自体がいずれもありふれたものであれば,これらに創作性を認めることができないことは明らかである。》(49頁1~3行目)
 しかし、これは法的「創作性」の解釈を誤ったものである。なぜなら、前記2で述べた通り、創作性とは一般論として、
《他に類例がないとか全く独創的であるという程度まで独自性が要求されるものではありません》、そして、《著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていればそれで十分だと考えられる。》ものである。そして、より具体的な例示として
《誰が作成しても同様になってしまうというような極めて単純なプログラムを除き、ほとんどのプログラムは指定の組み合わせ方等に作成者の個性が現れますので創作性が認められ、著作物に該当する》(加戸守行「著作権法逐条講義(六訂新版)」126頁)
とされている。つまり、指令の選択の幅が極めて狭く、誰が選択しても同様になってしまうという例外を除き、指令の選択肢が多数ある場合には、どの指令を選択しようが、その選択にはおのずから著作者の個性が現れると評価され、創作性が認められるとされているのであって、「その選択された指令自体がいずれもありふれたものであれば,これらに創作性を認めることができない」ものではないからである。
原判決は著作権法上の創作性を、特許等産業財産権の分野で要求される厳格な「新規性」や芸術や文芸のプロの世界の「創作性」(=事実的「創作性」)と混同している。

(6)、小括
 以上から、「表現の選択の幅が極めて狭い」の判断基準とは、
①.或る状況・場面を表現する時にその表現方法がごく限られていること。
②.当該状況・場面を表現する場合には、既に、それらの表現方法が世間で一般的に使用されていること
という場合を指すと解すべきである。
 また、①について
、もしこの要件が否定され、表現方法が限定されない場合には、そのうちどの表現を選択してもそこには表現者の創作性が肯定される。
 
(7)、本件の検討
ア、上告人は、控訴人準備書面(1)及び原告陳述書(5)(甲32)において、部分複製の主張ごとに、上記6の「
表現の選択の幅が極めて狭い」の2つの基準に該当しないことを、
①について、原告小説の表現以外にも他に様々な表現方法が可能であることを具体的に明らかにし、
②について、原告小説の先行資料中に、当該状況・場面を表現する原告小説と同一の表現がひとつも存在しないことを明らかにした。
本来なら、これにより表現の選択の幅が極めて狭い」の判断基準に本件の表現を当てはめて結論を導いたことになる。しかし、この検討は原判決により徹底して無視された。その上で、原判決は、結局のところ、仮に上告人の言うとおり、当該状況・場面を表現する他に多数の表現方法が可能だとしても、原告小説の表現自体が「ごくありふれた表現にすぎない」と決めつけて、創作性を否定した。
しかし、前記5で述べた通り、他に様々な表現方法が可能である以上、そのうちのどれを選択しようがその選択にはおのずから著作者の個性が現れるというのが著作権法の考え方であり、それゆえ、この場合にも「ごくありふれた表現にすぎない」と判断した原判決が誤っているのは明白というほかない。

イ、個別の検討1(原告小説2の部分複製3)
その上、原判決は原告小説2の部分複製3に対して、次のように判示した。
《①地震その他の天災や事故など,世間や周囲が混乱している機会に何かを行うときに「どさくさに紛れる」と表現することは,ごくありふれている。したがって震発生に乗じて田を登用するという実を「どさくさにれる表現することはありふれている。》(50頁7~10行目)
 しかし、著作物に創作的表現があるかどうかの判断は、あくまでも当該表現に即して吟味される必要がある。この観点から吟味した時、上記部分複製3における表現の新しさは、何よりも第1に、それまで誰も思いつかなかった「江戸の大地震」と「阿部による堀田の人事発令」という2つの出来事を結びつけた点にある。それまで誰も2つの出来事の関係を論じた者はいなかったからである。創作性の本質について、第6、6、(2)で前述した以下のことを思い出す必要がある。《素材の選択または配列に独創性を認めることは、(代理人注:編集著作物に限らず)著作物全般に通ずる性質でもある。著作物は表現を保護するということは、内部的・内面的な組成方法すなわちコンポジションをも独創性があれば表現形式として保護されることになる》(中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)60頁〔別紙10の1〕)。
以上から、「江戸の大地震」と「阿部による堀田の人事発令」、この2つの出来事(素材)を取り上げ、両者の関係を「どさくさに紛れて」と結びつけた点で、原告小説2の(ここでは、他に例を見ない)上告人の創作性がある。ここにこそ、被告番組の無断使用に上告人が怒った最大の理由がある。

ウ、個別の検討2(原告小説2の部分複製5)
 そもそも著作物の複製とは、既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製すること(最高裁昭和53年9月7日判決)、すなわち複製とは、既存の著作物と同一性のあるものを作成することをいい、ここでいう同一性の程度は、完全に同一である場合のみならず、多少の修正増減があっても著作物の同一性を損なうことのない、実質的に同一である場合も含むと解されている。上告人は、原告小説2の部分複製5は、この多少の修正増減があっても著作物の同一性を損なうことのない、実質的に同一である場合」に該当する旨を懇切丁寧に主張・立証した(控訴人準備書面(1)6頁・とりわけ原告準備書面(5)10~11頁)。
 しかし、原判決は、単に「ここがちがう、あそこがちがう」(51頁18~21行目)と違いだけを指摘し、そこから直ちに「同一の表現ということはできない」(52頁2行目)という結論を引き出した。これらの相違点によって、なぜ「多少の修正増減があっても著作物の同一性を損なうことのない」場合には該当しないのかについて、そして原告が懇切丁寧に両作品を対比し「著作物の同一性」を説明したのに対して、なぜこれでは「著作物の同一性」が認められないのか、という肝心の判断をせず、従って、その理由も       全く明らかにしなかった。これが理由不備であることは明らかである。

エ、個別の検討3(原告小説3の部分複製3)
 言うまでもなく、ストーリーはアイデアではなく、(内面的)表現形式に属する。そして、第6、5で前述したとおり、ストーリーを構成する要素である「個々の出来事」とは5つのWを備えた具体的表現のことである。この意味で、「公の席では舅の重豪が聟家斉にひれ伏さなければならない」(原告小説3。14頁8行目)とは5つのWを備えた具体的表現のことである。
 ところが、原判決はこの具体的な表現のことを「アイデアにすぎない」(53頁末行)と判断した。これは誤りというほかない。
 また、ウで前述した通り、複製とは多少の修正増減があっても著作物の同一性を損なうことのない、実質的に同一である場合」も含むが、誰が誰にひれ伏す点で、被告番組3は原告小説3の舅の重豪が婿家斉に」を「舅が婿に」と修正したが、これは「著作物の同一性を損なうことのない多少の修正増減」にすぎない。なぜなら、ひれ伏す場面において重要なことは「舅と婿という関係」であるが、この表現は両作品とも同一だからである。
 ところが、原判決はこの修正を「著作物の同一性を損なう」ほどの本質的な相違点と判断した。この判断が誤りなのは明らかである。
 以上から、原判決の判断には理由がない。

オ、小括
 以上の整理のもとに、控訴人準備書面(1)及び原告陳述書(5)(甲32)で主張・立証したとおり、
部分複製の各主張において、「表現の選択の幅が極めて狭い」の2つの基準に該当しないことが明らかであり、よって、いずれも部分複製が成立する。

4、著作者人格権侵害

 著作者人格権侵害の論点についての上告人の主張は、控訴理由書第4、3(47頁)で述べた通りである。

第9、結語


以上から明々白々の通り、原判決は、原告各小説のストーリーの事実認定において経験則に著しく違背し、なおかつ著作権法26条の解釈を誤ったため、その結果、著作権の保護と表現の自由とが衝突しその調整が問題となる憲法21条の解釈を誤ったものであり、その破棄は免れない。

以 上

別紙
目 録 

番号
標     目

作 成
年月日
作成者
立 証 趣 旨
謝罪文
2012.11.
10
被上告人
執行役員
中谷直哉
被告番組が原告小説を著作権侵害した問題について、上告人に郵送された謝罪文
2の
1~2
書籍「性表現の自由」(9~10頁・奥付)
1952.8.5
発行
奥平康弘・環昌一・
吉行淳之介
かつて、わいせつ裁判も単なる刑法175条の解釈の問題にとどまり、憲法の論点とは認識されていなかったこと。
記事「翻案権」
2001.7.5 発行
東京新聞
著作権と表現の自由の衝突とその調整について論じたもの。
表現の自由と著作権」(立命館法政論集)
(冒頭の1頁)
2008
西森菜津美
同上。
2008
飯野守
同上。
著作権と表現の自由」(冒頭の1頁)
2009

大日方信春
同上。
著作権と憲法理論」(知的財産法政策学研究)(冒頭の1~2頁)
2011.10.
 発行
大日方信春
同上。
8の
1~4
「私法の方法論に関する一考察」(抜粋)
1926
我妻栄
私法の具体的事件に対する裁判所の個々の判断はいかにして正当化されるか、という問題について私法の方法論の中で答えた論文。
「初版はしがき」(抜粋)
1952.12
我妻栄
別紙8の論文を収めた書籍のはしがきで、同論文執筆の経緯を明らかにした
10の
1~3
書籍「改定著作権(実用法律事典10)」
(60頁・128頁・奥付)
1980.7.25改定第1刷 発行
中川善之助=阿部浩二編
・翻案権の起源について
・「素材の選択と配列の仕方」に創作性を認めることは編集著作物にとどまらず、全ての著作物に通じる性質であることを指摘した
11の
1~2
私の履歴書「映画は狂気の旅である」
(182頁・奥付)
2004.7.5 第1刷 
発行
今村昌平
「映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分で決まる。だからシナリオ執筆には何年も費やし、稿を重ねて徹底的に苦しむ」という今村の回想
12の1~2
書籍「シナリオの構成」(56~61頁・奥付)
1985.3.
15

新藤兼人
映画監督溝口健二が常々「シナリオでは構成が重要である」と述べていた。
13の
1~2
書籍「シナリオ修行」
(23~27頁・奥付)
1962.12.
初版発行
新藤兼人
構成がシナリオの命であり、基本であること。
14
受領書
2015.11.
30
被上告人代理人林千春
上告人の主張の変更を記載した書面「控訴人最終準備書面第2部」を裁判所と被上告人に提出した日について
15
受領書
2015.11.
18
同上
上告人の主張の変更を記載した最初の書面「準備手続の翻案権侵害の討議のための覚書(2)」を裁判所と被上告人に提出した日について



[1] http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/hosei-6/nishimori.pdf
[2] goo.gl/OfZWBA
[3] http://www.law.kyushu-u.ac.jp/programsinenglish/asianlaw/japanese/nichu/repo/041.pdf
[4] http://lex.juris.hokudai.ac.jp/gcoe/journal/IP_vol33/33_9.pdf
[5] umbilden(ドイツ語)とは、改造という意味である。
[6] 「実有」とは実際に存在することを意味し、「実有的攻究」とは「実証的研究」と同義である。
[7] 大阪空港訴訟最高裁昭和561216日大法廷判決33頁(団藤重光裁判官少数意見)
[8] シークエンス(節)とは、一般に、小説や映画や番組の本筋を構成する個別の挿話(まとまりを持った小話)という意味である(甲17野田高悟「シナリオ構造論」134頁)。本裁判でシークエンスという用語を使用した理由は、翻案権侵害の主張が作品全部の侵害ではなく、作品の部分の侵害であり、なおかつ部分侵害の「部分」が全体のうちのどの部分か、すなわち作品全体を貫く大きな物語に対してその一部を構成する小さな物語が類似していることを明確にするためである(2015年11月27日控訴人最終準備書面第2部2~3頁参照)。
[9] 平成8年9月3日東京地裁判決。平成11年3月30日東京高裁判決。
[10] 平成13年6月28日最高裁第一小法廷判決。
[11] 厳密には、2015年11月17日提出の「準備手続の翻案権侵害の討議のための覚書(2)」の中で主張した。尤も、訴訟手続上、これは「陳述」扱いとはされなかったが。
[12]本件翻案権侵害について、一審では、一審判決で示された通り、被上告人の反論に沿って、もっぱら「上告人の主張するストーリーは、アイデア・思想または事実にすぎない」という本題以前の論点をめぐって審理が行われた。
[13] なぜなら、それは目で見、耳で聞くことができる具体的な表現同士が類似しているかどうかを問う問題だからである。
[14] なぜなら、それは目に直接見えず、耳で直接聞くことのできない、具体的な表現から抽出した表現(筋、ストーリー、主たる構成、人物像など)同士が類似しているかどうかを問う問題だから。
[15] 文芸や映画の作法の世界では、ストーリー、筋、プロット、構成はそれぞれ独自の意味があるとして、そのちがいが語られることがあるが、しかし、公式の定義がある訳ではない。本書面では、いずれも「物語の組み立て、展開」という意味で用いる。
[16]時間の推移のもとに表現され、時間的な発展・継起・運動を特徴とする芸術のこと。空間芸術と対比される。
[17] この「複数の出来事の組み合わせ」方の代表的なものが「序・破・急」(能楽)「始め・中・終わり」(アリストテレスの詩学)、「起承転結」(漢詩)である。
[18] よく言われることだが「始源的(本質的)なものは、それが成熟したとき視えてくる」。――著作物の創作性の本質も1710年のアン法に始まるとされる著作権法の歴史の中で230年以上経過した、1948年のベルヌ条約ブラッセル規定2条3項において制定された編集著作物の規定の中で、最もクリアに照らし出された。これを指摘したのが、中川善之助=阿部浩二編・改定著作権(実用法律事典10)60頁(別紙10の1)である。
[19] 《原告は、‥‥ストーリーの本質的特徴に即してストーリーの創作性を考察すれば、それは、ストーリーを構成する個々の出来事の選択とその配列の仕方(例えば、4つの出来事ⓐ、ⓑ、ⓒ、ⓓから構成されるストーリーなら、その創作性は様々な出来事の中からⓐⓑⓒⓓの4つの出来事を選択し、なおかつこの4つの出来事をⓐⓑⓒⓓの順番に並べたこと)にある主張し》(控訴理由書3頁8~13行目など)
[20] 最高裁平成13年2月13日判決。
[21] それは芸術の創作論において、常にくり返し論じられてきた(小説作法の代表的名著とされるEM・フォースター「小説とは何か」の「人物」(甲18の2)。「シナリオ構造論」の「性格の問題」(甲17の4)。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」の「その九 登場人物をきちんと設定せよ」(甲19の2)。大木英吉ほか「シナリオハンドブック」の「性格描写」(甲30の1)参照)。

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