2015年6月12日金曜日

佐藤雅美 VS テレビマンユニオン 著作権侵害事件(二審)控訴理由書(2015.4.28)

以下は、代理人が著作権に関わって以来約30年間の総決算の積りで書いた書面。->PDF版

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平成27年(ネ)第10042号 
控訴人  佐藤 雅美
被控訴人 株式会社 テレビマンユニオン
控訴理由書
2015年4月28日
知的財産高等裁判所第2部ニ係  御中
控訴人訴訟代理人弁護士 柳 原  敏 夫  

頭書事件の控訴理由は以下の通りである。
なお、表記について、本書面では便宜上、控訴人を原告、被控訴人を被告と、及び原告小説1~3を総称する場合は単に原告小説、被告番組1~3を総称する時には被告番組とした。
目 次
第1、本裁判の交通整理                        
1、本裁判の最大の主張と争点                     
2、肩透かしの門前払いの一審判決                 
3、一審判決の最大争点は法律論ではなく事実論である       
第2、事実論(芸術論と作品の構造分析論)1――ストーリー論――
1、問題の所在――創作的表現と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある――
2、ストーリーであるために必要な要件とは何か            
3、原告小説への当てはめ                                                   
4、一審判決と従前の判例との齟齬・矛盾                                    
5、ストーリーの創作性                       
6、ストーリーの類似性                        
7、小括                              
第3、事実論(芸術論と作品の構造分析論)2――人物設定論――
1、問題の所在――ストーリーと同じ誤りに陥った一審判決――      
2、人物設定の重要性と著作権法上の位置づけ                
3、人物設定でも創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある                                
4、「著作権法で保護する人物設定」であるために必要な要件とは何か  
5、原告小説への当てはめ                      
6、人物設定の創作性                         
7、人物設定の類似性                         
8、小括                                
9、その他1(エピソードの翻案)                   
10、その他2(部分複製)――二重基準への疑問――          
第4、法律論
翻案権侵害                            
2、複製権侵害(部分複製)                      
3、著作者人格権侵害                         
4、補足――翻案権侵害の判断基準に関する橋本論文の光と影について――  
第5、結語                              



第1、本裁判の交通整理
1、 本裁判の最大の主張と争点
本裁判における原告の最大の主張は原告小説のシークエンス[1]の翻案権侵害、つまり「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説のシークエンスの創作的なストーリー』を無断で使用し、翻案権侵害した」である。そして、この主張で最大の争点となったのは、本件の「創作的なストーリー」とは何かであり、一審の審理の殆どがこれに費やされた。
審理の中で、被告は、ストーリーをこれを構成する個々の出来事に分解して、個々の出来事ごとに先行資料があるとか「思想、アイデアにすぎない」と主張したのに対し、原告は、ストーリーをバラバラに分解する被告の主張は物語の展開を創り出すストーリーというものの本質的特徴を見失った誤謬の議論であり、ストーリーの本質的特徴に即してストーリーの創作性を考察すれば、それは、ストーリーを構成する個々の出来事の選択とその配列の仕方(例えば、4つの出来事ⓐ、ⓑ、ⓒ、ⓓから構成されるストーリーなら、その創作性は様々な出来事の中からⓐⓑⓒⓓの4つの出来事を選択し、なおかつこの4つの出来事をⓐⓑⓒⓓの順番に並べたこと)にある主張し、原告小説に即して具体的に主張・立証してきた(原告準備書面(4)及び一審判決別紙主張対照表の【創作性】参照)

2、肩透かしの門前払いの一審判決
ところが、一審判決は、一審の審理の殆どを費やしたこの肝心要の土俵(「ストーリーの創作性」という争点)に上がることをせず、思ってもみなかった形で、土俵にあがる手前のところでいきなり決着をつけてしまった。すなわち一審判決は、原告小説1のシークエンス1の翻案の判決理由にその特色が端的に表明されているのでこれを引用すると、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」は、一方で、一連の出来事の展開《創作意図、アイデア若しくは歴史上の事実についての見解であり》、他方で、ストーリーを構成する個々の出来事は《歴史上の事実にすぎず》《歴史上の事実についての見解であって》(別紙主張対照表1.1頁)、いずれも「思想、アイデア、事実にすぎない」ものだから、結局、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」は《著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(同上)それゆえ、それ以上「原告小説のシークエンスのストーリー」の創作性の有無及びその内容の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入るまでもなく、原告主張を斥けた。「ストーリーの創作性」という土俵の上ならともかく、よもや、土俵の外で、こんな大前提の門前で原告主張が斥けられたことは原告にとって、これ以上の肩透かしで門前払いの判決はない。よって、本書面のメインテーマは、この門前払いがいかに不当であるかを明らかにし、よって、審理を当初の通り本来の土俵の上に乗せ、その土俵の上で正しい裁きを引き出すことである。

3、一審判決の最大争点は法律論ではなく事実論である
 原告は、一審で、翻案権侵害の判断基準という法律論について争ったことは一度もない。なぜなら、「既存の著作物の表現形式上の本質的特徴を直接感得できるか否か」[2]といった判断基準は民法90条の「公序良俗」、同1条の「権利の濫用」、同709条の「過失」などと同様、あくまでも一般条項または不特定概念に過ぎず、それだけでは、具体的紛争の具体的な判断を導く基準には到底なり得ず、これ自体を議論しても生産的でないからである。それを端的に物語る事例が江差追分事件の翻案権侵害をめぐる司法判断である。東京地裁・同高裁の知的財産専門部と最高裁が、いずれもほぼ同様に上記の判断基準を採用したにもかかわらず、その結論は正反対だった。ここから、一般条項または不特定概念について改めて我々が肝に銘ずべきことは、民法90条の「公序良俗」の意義をめぐって、かつて我妻栄が指摘した以下の言葉である。
《第90条は、抽象的規定であることがその生命である。しかし、そのためには第90条の適用が裁判官の個人的思想による区々な結果となってはならない》(民法講義Ⅰ.271頁終わりから2行目以下)
そこから、我々が向かうべきなのは、我妻栄の上記文章の続きである、以下の指摘である(江差追分事件の最高裁判決について同旨の見解を述べたものとして島並良[3]。大家重夫[4])。
《ここにおいて、一面、従来の判例及びこれに対する学者及び社会一般の批評を仔細に観察し、他面、活路を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、もって、具体的な決定を誤らないように努めなければならない。》(同271~272頁)
 二審において、我々がまず観察すべき「当代の社会思想と社会制度」とは、何をもってストーリーというか、それを原告小説に当てはめた時、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」がストーリーといえるか否かである。なぜなら、もともとストーリーは著作権法で保護される表現形式の1つであり[5]、一審で原告は、著作権法で保護される表現形式のストーリーという意味で「原告小説のシークエンスのストーリー」を主張したのに対し、一審判決はそのストーリーを構成する個々の出来事や一連の出来事の展開は「思想、アイデア、事実にすぎない」から、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」は「著作権法で保護されるべき表現には当たらない」とストーリー性を否定したからである。その意味で、これは法律論ではない。事実論である。しかもその事実論とは芸術論とこれを踏まえた作品の構造分析論にほかならない。
 以上を踏まえ、次に、本件に即して事実論(芸術論と作品の構造分析論)を吟味検討する。

第2、事実論(芸術論と作品の構造分析論)
1、問題の所在――創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある――
 一般に、原告小説のような言語著作物の中から或る要素を取り出して、これが「思想、アイデア、事実にすぎない」と指摘することは常に可能である。なぜなら、そもそもどんな言語著作物にも、その中にストーリーに関することで質的に異なる次元において、
①.主題・テーマ(どんな思想、アイデアに基づいてストーリーを構想したのか)
②.ストーリー・構成
③.具体的表現(ストーリーを構成する個々の出来事を具体的に記述した表現)
④.事実自体(③の具体的表現の中で使われる事実自体)。
の要素がいずれも備わっているからであり(野田高悟「シナリオ構造論」構成の題材・テーマ(主題)・ストーリー(筋)105~125頁参照)、その中から思想、アイデア、事実に属する要素を取り出すだけのことだからである。言い換えれば、そもそもどんな言語著作物でも、その中から、思想、アイデア、事実に属する要素を取り出すことも可能であれば、ストーリー・構成に属する要素を取り出すことも可能である。これに対し、一部には、言語著作物の全部或いはその一部について、ひとたび思想、アイデア、事実に属する要素が見出せたら、その思想、アイデア、事実で占められたその著作物には、あたかもクリミア半島の領土を2つの国のどちらが占領するかのように、もはやそれ以外のストーリー・構成に属する要素は存在し得ないか、又はその思想・アイデア・事実に関するストーリー・構成は存在できない、と考える者がいる。しかしそれは芸術論(作品の構造分析論)を理解しないが故に陥る誤りである[6]。なぜなら、ここでは言語著作物の同一次元ではなく、異なる次元で片や思想、アイデア、事実に属する要素が、片やストーリー・構成に属する要素が見出せるかどうかを論じているだけのことなのだからである。
つまり、言語著作物の中でストーリー・構成と思想、アイデア、事実は併存するのであり、両者の存在は食うか食われるかのごとき排他的なものでなく、両立する関係に立つ。それはちょうど、平井宜雄の画期的な業績として知られる、因果関係に対して事実論と法律論という異なる次元において、それぞれ事実的因果関係と法的因果関係を見出したのと似ている[7]
 そこで、問題は、本裁判において、原告が原告小説の中から、ストーリーに属する要素を正しく取り出して、「原告小説のシークエンスのストーリー」として主張しているか否かを正面から吟味検討することである。
 ところが一審判決は、正面からこれを吟味することを怠った。そして、裏口から、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」の表現は「思想、アイデア、事実にすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア、事実」がそこを占領した以上、もはや「ストーリー」が占領する余地はないと言わんばかりに、ストーリー性を否定して原告主張を斥けた。
しかし、上述の通り、およそ言語著作物の中から「思想、アイデア、事実」に属する要素を取り出すことは常に可能である。その意味で、「原告小説のシークエンス」の中からストーリーに関する「思想、アイデア、事実」に属する要素を取り出すことも常に可能である。しかし、だからといって、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」が「ストーリー」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」がストーリーの要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。
 それを実行してみせたのが江差追分事件の最高裁平成13年6月28日判決である。最高裁判決は、一方で、両作品の同一性を有する部分は、《一般的知見に属し、江差町の紹介としてありふれた事実であって、表現それ自体ではない部分において同一性が認められるにすぎない。また‥‥これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはなく、‥‥表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず》と両作品で同一性が認められる部分とは「認識(思想、アイデア)、事実にすぎない」と判断したが、しかしそれで終わりにせず、他方で《本件ナレーションの運び方は、本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが、その記述順序自体は独創的なものとはいい難く、表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。》と、原告作品(本件プロローグ)の「運び方」「記述順序」つまりストーリー・構成を取り出して、これについての吟味検討を怠らなかった。しかし一審判決はこの「ストーリー・構成の取り出し」を怠った。怠ったまま、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」のストーリー性を否定し、そこからいきなり翻案ではないという結論を導いた。この一点だけでも一審判決は失当であり、取消しを免れない。
 そこで我々も、江差追分事件の最高裁判決が実行した上記の後半部分(「ストーリー・構成の取り出し」とその吟味検討)にならって、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、同様の吟味検討を実行する。

2、ストーリーであるために必要な要件とは何か
 ストーリーとは、一般的に「小説・脚本・映画などの筋または筋書」(広辞苑)と言われ、筋とは「話の骨組み・しくみ」(広辞苑)である。「話の骨組み」とは、登場人物に関する個々の行動や出来事(以下、これを出来事という)を複数組み合わせて、ひとつの流れとして捉えることとされる(江差追分事件の上告審に提出された近代日本文学専攻の小森陽一東大教授の意見書(甲29。以下、小森意見書という)頁を参照)。この「複数の出来事の組み合わせ」方の代表的なものが「序・破・急」(能楽)「始め・中・終わり」(アリストテレスの詩学)、「起承転結」(漢詩)である。
 そして、一般に、「複数の出来事の組み合わせ」がストーリーであるためには、個々の出来事に主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)、因果関係(Why)の5つの要素(以下、5つのWと略称)が備わっていることが必要とされる(以上、小森意見書5頁参照)。
小津安二郎の数々の名作の脚本を手がけた野田高梧氏が書いた我が国の代表的なシナリオ解説書である『シナリオ構造論』も以下の通り、同様の見解を述べる[8]
《新聞の報道記事が含まなければならない条件として五つのWがあるという話を聞いたことがある。
Who(誰が)――人物
When(いつ)――時
Where(何処で)――場所
What(何を)――事件
Why(なぜ) ――原因
 この五つの条件のうちどの一つが欠けてもいけないというのである。一つの主題を中軸としてそこに筋(ストーリー)が構成される場合にも、またこれと同じことが云われる。 
  大体、映画の筋のみに限らず、叙事詩、戯曲、小説などすべて物語の形を以て語られる説話形式のものは、次のような原型の上に成り立つものだと云われている。
  誰が又は何が――(主体)……性格
  何を、いかに――(事件)……行為
  いつ、何処で――(背景)……環境
  この「性格」「行為」「環境」という三つの条件が整わない限り、いかなる小さな物語も、またいかなる規模の雄大な物語も、決して成り立つものではないというのである。たとえば「昔々或るところに」というのは「環境」であり、「お爺さんとお婆さんが」というのが「性格」である。更に「洗濯に行く」とか「芝刈りに行く」という「行為」のなかには「盥を持って」とか「籠を背負って」とか或いは「歩いて」とか「走って」とかいう「いかにして」が省かれているもので、そういう些細な挿話のなかにさえ如上の三つの要素が含まれていることがわかろう。
  ところで、それとは逆に、ではそういうふうに「性格」と「行為」と「環境」という三つの要素が具わればそこに必ず物語が生まれ得るものかと云えば、それは必ずしもそうとばかりは限らない。勿論、この三つの要素は物語が成立するための必須の条件ではあるものの、それが一連の纏まった筋(ストーリー)の形を備えるためには、更にもう一つの重要な条件として、そこに語られる出来事の一つ一つの間に何らかの有機的な連絡がなければならないのである。》(甲17の3。119頁8行目以下)

3、原告小説への当てはめ
 そこで、以上の「ストーリー」を、原告小説の各シークエンスごとに当てはめるとどうなるか。以下に詳述する通り、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はストーリーの要件を満たすものであることが分る。
(1)、原告小説1
①.シークエンス1
ア、一般論
 或る出来事が簡潔に記述された場合、例えば「王が死んだ」としか記述されないときでも、そこに明示されなくても前後の文脈(コンテキスト)から、When(いつ)、Where(何処で)、Why(なぜ)がおのずと分る時には、それは5つのWという要素を備えた表現である。
イ、本件
これと同じように、訴状8~39頁の各表に記述された原告小説の各シークエンスを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表の【ストーリー】参照)は、以下の通り、これらはいずれも5つのWを備えた表現であり、従ってこれがストーリーの要件を満たすものであることが明らかである。
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
田沼意次(以下、田沼という)
When(いつ)
明和7年秋~明和8年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
1年4万両の倹約で、5年間に20万両を捻出しようと考えた
Why(なぜ) 
将軍家治の日光社参を実現するため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
明和4年初め~同年11月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
弟分の水野忠友を表の役人である勝手掛若年寄に推挙し
Why(なぜ) 
水野忠友を通じて20万両捻出を実現させるするため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
5年の倹約が満期になり、20万両を捻出した
Why(なぜ) 
将軍家治の日光社参を実現するため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
将軍家治
When(いつ)
明和9年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
田沼を老中に昇進
Why(なぜ) 
田沼の日光社参実現に向けての骨折りを賞するため

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
「田安家は幕府予算を食いつぶす存在だ」と考えた
Why(なぜ) 
田安家の年の賄い料が倹約の1年分になるから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
田安家の取り潰しを狙う
Why(なぜ) 
幕府の財源をうるおすため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
松平定信
When(いつ)
安永3年~
Where(何処で)
田安邸→八丁堀の白河松平家の江戸藩邸→白河
What(何を)
田沼を激しく憎悪した
Why(なぜ) 
将軍になれる可能性があったのに白河松平家に養子に出されたから

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
田沼邸
What(何を)
租税徴収権の限界を認識していた
Why(なぜ) 
常に幕府財政のことを考えていたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
新御用金令を発令
Why(なぜ) 
全国民から税を徴収するため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
江戸と大坂
What(何を)
全国民から税を徴収
Why(なぜ) 
幕府の新たな財源を確保するため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓓ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
諸大名の担保流れの土地を没収
Why(なぜ) 
諸大名から実質的に領土を略奪するため

(2)、原告小説2
①.シークエンス1
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
徳川斉昭(以下、斉昭という)を「評判と大きく違った、誰とでも見境なく争う」人物として設定
Why(なぜ) 
斉昭の当時の言動から
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
堀田正睦(以下、堀田という)を実務能力に長けた人物として設定
Why(なぜ) 
当時の堀田の言動から
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
阿部正弘(以下、阿部という)
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田を老中首座に迎える
Why(なぜ) 
老中を補充すると、老中経験者の堀田はおのずと首座になるから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田に「何分にもよろしく」と挨拶
Why(なぜ) 
礼を尽くすため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田をお飾り(=看板)として利用
Why(なぜ) 
あくまでも自分が実権を握るため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政2年前後
Where(何処で)
おもに自邸
What(何を)
「清国の二の舞を回避しなければ」と考える
Why(なぜ) 
とりわけイギリスに脅威を感じていたため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
阿部を鎖国体制維持の頑固な保守主義者(=攘夷鎖国派)として人物設定し、鎖国派の阿部と開国派の堀田を対比させる
Why(なぜ) 
主に「幕府外国関係文書」から読み取れる

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
海防掛勘定奉行勘定吟味役(トップが阿部)
When(いつ)
安政2~4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
西欧との交易に反対
Why(なぜ) 
彼らもまた鎖国派だったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
阿部に「海防の御役に就かせてほしい」と言う
Why(なぜ) 
海外問題に危機感を抱いていたから
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
ハリスを傍若無人、喧嘩腰の人物として設定
Why(なぜ) 
「幕末外国関係文書」の対話書から読み取れる
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓓ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政3~4年
Where(何処で)
おもに江戸城
What(何を)
ハリスを江戸に呼び寄せようと画策
Why(なぜ) 
ハリスとの通商条約の締結を強引にすすめるため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定にハリスの出府許可を求める
Why(なぜ) 
重要なことはすべて将軍の許可が必要だったから

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
斉昭の暴言に、諸大名への根回しが吹き飛んだと憂慮
Why(なぜ) 
斉昭の発言によりハリスとの条約締結が難しくなったと考えたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
詔勅を取りにいくことを思いつく
Why(なぜ) 
斉昭を抑えつけるため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
詔勅が簡単に手に入ると見込む
Why(なぜ) 
外国(とりわけイギリス)の脅威を強調すれば同意すると思った
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓓ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
孝明天皇を過激な攘夷主義者で政治に敏感な人物として設定
Why(なぜ) 
「幕末外国関係文書」などから読み取れる
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年
Where(何処で)
禁裏 
What(何を)
孝明天皇に政治介入の野心を抱かせた
Why(なぜ) 
幕府(堀田)が孝明天皇に許可を求めたため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
孝明天皇
When(いつ)
安政5年3月
Where(何処で)
禁裏 
What(何を)
差し戻し不許可の回答
Why(なぜ) 
幕府に対する発言力を高め、かつ誇示するため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸への帰路
What(何を)
同席からの手紙に将軍家定の暖かい言葉があり感激
Why(なぜ) 
将軍家定はたぶん怒っているだろうと思っていたから
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田をねぎらう
Why(なぜ) 
性癖が温和だから
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田の松平越前守慶永の将軍補佐の申請を拒否
Why(なぜ) 
将軍の座を追われかねないと懸念したから

(3)、原告小説3
①.シークエンス1
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
島津重豪(以下、重豪という)
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
金主、銀主に利払いの停止を決断
Why(なぜ) 
借金がかさみ、利払いに苦しんでいたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
人材不足に悩む
Why(なぜ) 
調所笑左衛門(以下調所という)という人材が側にいるのに気がつかなかったため、及び多くの人材を粛清していたため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
金方物奉行樋口に、利払い停止通告を命ず
Why(なぜ) 
そうするしか藩が生き延びる術はないと思ったから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
銀主
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
追加融資をストップ
Why(なぜ) 
借金踏み倒しに対抗するため
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化11年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
「われ敗たり!」と首をたれた
Why(なぜ) 
借金の踏み倒し作戦が失敗したから

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
高輪藩邸
What(何を)
調所に琉球産物品目の拡大を老中水野に働きかけよと命じる
Why(なぜ) 
財政難打開の一環として
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
向島の土方の屋敷
What(何を)
水野家の元家老の土方に、琉球産物品目の拡大を働きかける
Why(なぜ) 
土方は水野家の懐刀ゆえ、「将を射んとすれば馬を射でよ」で
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
土方
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
向島の土方の屋敷
What(何を)
調所に、見返りに「将軍家斉の父の官位昇進」を持ち出す
Why(なぜ) 
薩摩藩は京(とくに近衛家)にコネがあったから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓓ
Who(誰が)
将軍家斉の父(一橋治済)
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
准大臣に任じられる
Why(なぜ) 
薩摩藩の働きかけが効を奏したかと
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
幕府(老中水野)
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
水野邸
What(何を)
琉球産物10品目の拡大を許可
Why(なぜ) 
将軍家斉の父の准大臣就任の見返りとして

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
再度、利払いの停止を決める
Why(なぜ) 
それしか財政再建の道はないと思ったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
「つなぎ資金の確保」に悩み、担当を調所に命じる
Why(なぜ) 
つなぎ資金がないと前回と同様、失敗するから
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
出雲屋孫兵衛(以下、孫兵衛という)と出会い、つなぎ資金を確保
Why(なぜ) 
孫兵衛にも薩摩藩を利用しようという魂胆があったから

④.シークエンス4
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス4の出来事
Who(誰が)
調所と孫兵衛
When(いつ)
文政11年
Where(何処で)
薩摩藩
What(何を)
再建策の1つとして、第二会社を設立
Why(なぜ) 
第二会社が事業を引き継ぐため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス4の出来事ⓑ
Who(誰が)
調所と孫兵衛
When(いつ)
文政11年
Where(何処で)
薩摩藩
What(何を)
薩摩藩を整理会社にする
Why(なぜ) 
整理会社に借金を凍結するため

⑤.シークエンス5
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事
Who(誰が)
島津斉興(以下、斉興という)
When(いつ)
弘化3年
Where(何処で)
芝の薩摩藩本邸
What(何を)
せがれの島津斉彬(以下、斉彬という)に家督をゆずりたくないと考える
Why(なぜ) 
斉彬は、せっかく貯めた金を目新しいことに湯水のごとく使いそうだから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓑ
Who(誰が)
斉彬
When(いつ)
弘化3年
Where(何処で)
老中阿部正弘(以下、阿部という)の屋敷
What(何を)
阿部に薩摩の密貿易情報を流す
Why(なぜ) 
調所を失脚させ、父斉興を隠居に追い込むため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓒ
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
嘉永元年
Where(何処で)
阿部の屋敷
What(何を)
調所を相手に、薩摩の密貿易を追及
Why(なぜ) 
調所を失脚させ、父斉興を隠居に追い込むため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓓ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
嘉永元年
Where(何処で)
目黒の橋和屋
What(何を)
自ら命を絶つ
Why(なぜ) 
累を斉興に及ばせないため

(4) 、小括
 以上の通り、原告が主張する「原告小説の各シークエンスを構成する各出来事」は、いずれも5つのWを備えた表現であるから、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はストーリーの要件を満たすものである。

4、一審判決と従前の判例との齟齬・矛盾
(1)、一審判決の特異性
これに対し、一審判決は、ストーリーを構成する個々の出来事が5つのWを備えた表現であるにもかかわらず、これを「思想、アイデア、事実にすぎない」としてストーリー性を否定し、それ以上、ストーリーの創作性の有無の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、直ちに翻案権侵害を否定した。これは、従来の、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の判決の理由付け(理論構成)と甚だしい乖離をもたらし、弥縫不可能なまでの齟齬・矛盾を生む結果となった。なぜなら、従来、この種の事件の判例は、以下に詳述するとおり、ストーリー・構成の要素となる個々の出来事が5つのWを備えた表現であればいずれもこれをストーリー・構成であると肯定し、その上で、当該ストーリー・構成の創作性の有無を問い、さらに「創作的なストーリー・構成」が両作品で類似するか否かを問い、翻案権侵害の成否を判断してきたからである。

(2)、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の従前の判決の理論構成
①.江差追分事件の最高裁平成13年6月28日判決
本件ナレーションの運び方は、本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが、その記述順序自体は独創的なものとはいい難く、表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。》(アンダーラインは原告代理人による。以下も同様)
アンダーラインの「運び方」「骨格を成す事項の記述順序」とはストーリー又は構成と実質的には同じ意味である。上記判決は、原告作品の本件プロローグ部分の「骨格を成す事項の記述順序」が著作権法が保護する表現形式であることを前提にした上で、当該表現形式には創作性が認められないとして、翻案権侵害を否定したものである。決して、被告作品の本件ナレーションの「運び方」も原告作品の本件プロローグ部分の「骨格を成す事項の記述順序」もそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

②.ザ・心臓事件の東京地裁平成2年5月23日判決
《2 次に、原告シナリオと被告シナリオの内容を比較してみるに、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第一二号証、成立に争いのない甲第一三号証によれば、次の事実が認められる。
(1)両シナリオは、全問正解をした人に、希望するあらゆる賞品を叶えるというテレビのクイズ番組に出場し、全問正解をした主婦(主人公)が、その賞品として心臓移植手術のための心臓を希望し、テレビの取材を条件としたテレビ放送局の資金協力によって、アメリカに行き、同国の病院において、原告シナリオにおいては主人公の息子、被告シナリオにおいてはその夫に心臓移植手術を受けさせることになること、アメリカにおいて適当な心臓提供者が現れず、右息子ないし夫が末期症状的な心臓発作に見舞われるという危機的状況の中で、医師団の説得もあって、主人公がバブーンの心臓の移植手術を息子ないし夫に受けさせることを決意するに至り、その心臓移植手術が行われることという基本的なストーリーにおいて共通している。‥‥
仮に前2認定の原告シナリオの基本的な枠組みに著作物性が認められ、しかも、被告シナリオが基本的な枠組みにおいて原告シナリオと共通であるとしても、それは、原告の許諾に基づくものというべきところ、被告シナリオは、前2認定のとおり、基本的な枠組みにおいて原告シナリオと類似しているけれども、サブテーマ、登場人物のキャラクター、ストーリー展開等において、原告シナリオと異なりそれ自体独自性を有するのであるから、被告シナリオと右類似している部分については、少なくとも原告の許諾の範囲内において執筆されたものであり、また、独自性を有する部分については、被告シナリオとは別個独立に執筆されたものであって、その翻案には当たらないものと認めるのが相当である。》
上記判決は、2(1)で述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的なストーリー」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリーに著作物性(創作性)が認められると仮定して侵害の成否を判断している。決して、両作品の「基本的なストーリー」や「基本的な枠組み」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

③.妻たちはガラスの靴を脱ぐ事件の一審・二審判決
()東京地裁平成5年8月30日判決
《1 右二に認定の事実によれば、原告著作物の基本的なストーリーは、「建設会社に勤務する主人公章子の夫がサウジアラビアへ二年間の単身赴任を命じられる。章子は、夫と同行したいと願い、夫と議論するが、会社の方針によって許されないまま、夫は赴任する。
章子は希望を実現しようと夫の会社と直談判するが、会社側は、治安の悪さを理由に章子を説得しようとする。章子はサウジアラビアに社員を派遣している石油会社や商事会社を訪ね歩き、会社が同行を許さない理由とする事情は真実でないことや、企業の海外単身赴任の実情を知るとともに、社員用アパートを提供できるかも知れないという企業まで見つけた。章子は、自力でサウジアラビアへ赴こうとするが、回教国である同国へは、女性の単身での入国ビザが得られないという障害にぶつかる。しかし、書類上の操作で入国が不可能ではないことを知る。章子が夫の後を追って行きそうだと知った会社は、単身赴任の慣行を維持しようとして、夫に帰国命令を下し、章子は別れてから六ケ月半後に夫を取り戻す。しかし、章子と夫との間には亀裂が生じ、章子が就職したことが破局の直接的なきっかけとなる。章子は、次第に仕事と家庭の両立が困難な状況になり、家事の分担を巡って夫婦間の溝は深まり、離婚するに至る。その後、章子は、章子の新しい生き方を尊重する男性と再婚する。」というものである。
2 右四認定の事実によれば、本件テレビドラマの基本的なストーリーは、「建設会社に勤務する主人公章子の夫がサウジアラビアへ二年間の単身赴任を命じられる。章子は、夫と同行したいと願い、夫と議論するが、会社の方針によって許されないままに夫は赴任する。章子は希望を実現しようと、サウジアラビアに社員を派遣している石油会社や商事会社を訪ね歩き、企業の海外単身赴任の実情を知るとともに、社員用アパートを提供してもよいという企業まで見つけた上、夫の会社と直談判するが、会社側は、赴任者のチームワークが乱れることを理由に章子の願いを拒絶する。章子は自力でサウジアラビアへ赴こうとするが、回教国である同国へは、女性の単身での入国ビザが得られないという障害にぶつかる。しかし、書類上の操作で入国が不可能ではないことを知る。章子が夫の後を追うおそれがあると知った会社は、夫に帰国命令を下す。現地の上司のとりなしで、章子を説得するため一時帰国した夫は、隣人の妻の不倫相手の刃傷沙汰に巻き込まれて負傷し、入院する。章子と夫との間に溝ができかけるが、章子は夫の真意を知り、よい妻になろうと決意し、夫の単身赴任先に同行しようと大騒ぎしたことを夫に謝り、章子と和解した夫は、再度単身赴任し、章子は日本で職業につく。」というものである。
3 右1及び2の事実によれば、原告著作物と本件テレビドラマは、主人公の夫が帰国するまでの前半の基本的ストーリーが極めて類似していることは明らかである。》
()、東京高裁平成8年4月16日判決
《本件テレビドラマは、前半の基本的ストーリーやその細かいストーリーが原告著作物と類似し、また具体的表現も共通する部分が存するものであり、後半の基本的ストーリー等において前記のような相違点があるにもかかわらず、原告著作物を読んだことのある一般人が本件テレビドラマを視聴すれば、本件テレビドラマは、原告著作物をテレビドラマ化したもので、テレビドラマ化にあたり、夫の帰国以後のストーリーを変えたものと容易に認識できる程度に、本件テレビドラマにおいては、原告著作物における前記の特徴的・個性的な内容表現が失われることなく再現されているものと認められるから、本件テレビドラマは原告著作物の翻案であると認めるのが相当である。》
上記の一審・二審判決はいずれも、1及び2で述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的なストーリー」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリーに著作物性(創作性)が認められることを暗黙の前提にして両者の類似性(同一性)を判断している。決して、両作品の「基本的なストーリーをそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

④.春の波濤事件の一審・二審・上告審判決
()、名古屋地裁平成6729日判決
《3 翻案権侵害の成否について
(一) 著作物についてその翻案権の侵害があるとするためには、問題となっている作品が、右著作物と外面的表現形式すなわち文章、文体、用字、用語等を異にするものの、その内面的表現形式すなわち作品の筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、人物の出し入れ、その人物の個性の持たせ方など、文章を構成する上での内的な要素(基本となる筋・仕組み・主たる構成)を同じくするものであり、かつ、右作品が、右著作物に依拠して制作されたものであることが必要である。‥‥
原告作品と本件ドラマとでは、前示のとおり、分量、対象とする年代、叙述の対象、登場人物、描写の方法、取り上げるエピソード等の内容、貞奴の描写、他の主要人物の描写のいずれの点においても大きな相違があり、両作品を全体として比べると、基本的な筋、仕組み、構成のいずれの点においても同一とは言えないから、両作品は、内面形式の同一性を欠くものと言うべきである。
 なお、本件ドラマ中には、原告作品と部分的に基本的な筋が同一であると見られる箇所が存在する(例えば、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等)が、同一と見られる箇所は、いずれも歴史上の事実であって(後記四2(三)の判示参照)、原告の創作に係るものとは言えないから、原告作品と本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
 したがって、本件ドラマの制作は、原告の翻案権を侵害するものとは言えない。》
()、名古屋高裁平成9年5月15日判決
《当裁判所も、控訴人作品の性格、内容それ自体については、基本的には原判決説示のように説明するのが相当であると判断するものである》
()、最高裁平成10年9月10日判決
《上告人の上告理由について所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。》
上記の一審・二審・上告審判決はいずれも、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等の表現に対し、これを(両作品で同一であると認めた)「基本的な筋」の一部と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該「基本的な筋」創作性が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「基本的な筋」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

⑤.コルチャック先生事件の大阪地裁平成13年8月28日判決
《両者に共通する1935年以降の基本的な筋を見ると、①ナチスドイツが隆盛になる中、コルチャックは、ユダヤ人であったために、それまで担当していたラジオ番組を中止され、また自らが設立したポーランド人孤児のホームを追われ、ユダヤ人孤児のホームの運営のみを行うようになった、②その後、ポーランドに侵攻したナチスドイツ軍により、ユダヤ人特別居住区のワルシャワ・ゲットーが作られ、コルチャックとそのホームの子供たちはゲットーに強制移住させられた、③ゲットーでの生活は苛酷なものであったが、コルチャックは、子供たちの生活のために、食糧・寄付集めに奔走しつつも、ホームではハヌカの祭りを祝い、劇を上演するなどした、④しかし、ナチスドイツはゲットーのユダヤ人をトレブリンカ絶滅収容所に移送することを開始し、コルチャックとその子供たちにも移送命令が下りた、⑤コルチャックが子供たちと共に移送用の貨車に乗り込もうとしたところ、
関係者の努力で特赦の知らせが届いたが、コルチャックは、自分だけの特赦を受け入れず、子供たちと共に貨車に乗り込んでトレブリンカへ旅立った、というものであり、このような基本的な筋は、両者に共通している。‥‥
しかし、コルチャックの生涯については、原告著作が平成2年12月に発刊される以前から、外国においては多数の文献が公表され、映画も製作されている‥‥それらによれば、前記の基本的な筋は史実であって、原告著作の創作によるものではないと認められる。》
上記判決は、ここに①から⑤まで述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的な筋」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該創作性が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「基本的な筋」を思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない著作物性(創作性)が認められると仮定して侵害の成否を判断している。決して、両作品の「基本的な筋をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

⑥.漫画『彼女の告白』映画化上映事件東京地裁平成25年11月22日判決
《ア 証拠(甲1)によれば、本件漫画は、全18頁(「週間甲」3~20頁)であり、その登場人物、設定場面、ストーリー及び台詞は、別紙認定対比表の本件漫画欄記載のとおりである。
本件漫画のストーリー展開は、「①父母が3年ぶりに東京から帰省する息子(達彦)の到着を待っていたところ、息子ではなく、(達彦を装った)若い女性(南裕子)が現れた。②父母は、その女性から性転換を告白されたため、その女性を息子と誤解し、さらに、父は、その結婚の報告に対して男同士の結婚であることを理由に反対した。しかし、③父母は、これを契機として、父母の秘密を告白することを決め、その女性に対し、父が女性であって父母が女性同士であったことを告白し、さらに、父が息子を出産したことを話した。ところが、④到着した息子は、父母とその女性が和んでいるから芝居がばれていると思い、父母に対し、その女性が自分の彼女であり、自分がニューハーフになった役での芝居を頼んだことを話した。そして、息子は、父母とその女性がどんな話をしていたのかを聞いたが、誰も答えなかった。」というものである。
 他方、証拠(甲2)によれば、本件映画は、約14分33秒(本編前後のクレジットを含む。)であり、その登場人物、設定場面、ストーリー及び台詞は、別紙認定対比表の本件映画欄記載のとおりである。
 本件映画のストーリー展開は、上記の本件漫画のストーリー展開と同じである(ただし、「南裕子」は、本件漫画では「達彦」の彼女であるのに対し、本件映画では「達彦」の婚約者であるという違いはある。)。
イ 以上のとおり、本件映画は、登場人物やストーリー展開が本件漫画と同じであり、台詞も本件漫画と多くの部分が同じである。
 確かに、本件映画と本件漫画は、その設定場面において、本件映画が日本家屋の縁側、本件漫画が主として日本家屋の座敷であるという違いや、本件映画には、本件漫画にはない性転換手術についての会話、父が裕子の顔に杯をかける場面、母が父に対して秘密を話すことを促す場面があるなどの違いがあり、それらの点において、本件漫画と異なる創作性が認められる。しかしながら、本件漫画は、息子(達彦)の彼女(婚約者)である裕子が、達彦を装って性転換を告白したために、達彦の父母が裕子を達彦であると誤解し、達彦(実は裕子)に対し、自分達夫婦が実はともに女性であること及び達彦は父(実は女性)が出産したことを告白するという奇抜なストーリー展開とそれを支える台詞や登場人物の感情の動きについての描写に、その表現上の本質的な特徴があるといえるのであって、その表現上の本質的特徴部分において、本件映画は本件漫画と同一である。》
 上記判決は、ここに①から④まで述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「ストーリー展開」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリー展開に「表現上の本質的な特徴」が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「ストーリー展開」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

(3)、小括
 以上から、従来、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の判例は、ストーリー・構成の要素となる個々の出来事が5つのWを備えた表現であればいずれもこれを著作権法で保護する表現形式であると肯定し、その上で、当該ストーリー・構成の創作性の有無を問い、さらに「創作的なストーリー・構成」が両作品で同一であるか否かを問い、翻案権侵害の成否を判断してきたことが明らかであり、それゆえ、ストーリーを構成する個々の出来事が5つのWを備えた表現であるにもかかわらず、これを「思想、アイデア、事実にすぎない」としてストーリー性を否定し、そこからただちに翻案権侵害ではないという結論を導いた一審判決が際立って特異なものであることも明らかである。

5、ストーリーの創作性
 そこで、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、どのような創作性が認められるか。本来、これがシークエンスの翻案の最大の争点である。
 第1、2で前述した通り、一審で、原告は、ストーリーをバラバラに分解する被告の主張は物語の展開を創り出すストーリーというものの本質的特徴を見失った誤謬の議論であり、ストーリーの本質的特徴に即してストーリーの創作性を考察すれば、それは、ストーリーを構成する個々の出来事の選択とその配列の仕方(例えば、4つの出来事ⓐ、ⓑ、ⓒ、ⓓから構成されるストーリーなら、その創作性は様々な出来事の中からⓐⓑⓒⓓの4つの出来事を選択し、なおかつこの4つの出来事をⓐⓑⓒⓓの順番に並べたこと)にある主張し、原告準備書面()で具体的に主張・立証してきた(一審判決別紙主張対照表の【創作性】参照)ので、ここではくり返さない。

6、ストーリーの類似性
原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」と原告主張の「被告番組のシークエンスのストーリー」とが同一であることについては被告も争わない(一審判決別紙主張対照表【ストーリー】参照)。従って、同一性が認められる両作品のストーリーについて、上記5で述べた通り、原告の創作性が認められる以上、両作品のシークエンスの「創作的なストーリー」同士の類似性が認められるのは当然である。

7、小括
 以上の通り、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、一審判決の門前払いの誤りをただし、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」という土俵の上で正しい判断をすれば、原告小説のいずれのシークエンスについても翻案権侵害が認められる。

第3、事実論(芸術論と作品の構造分析論)2――人物設定論――
1、問題の所在――ストーリーと同じ誤りに陥った一審判決――
本件の重要な争点の1つが原告小説2の登場人物について人物設定の翻案権侵害、つまり「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説2の6人の登場人物についての人物設定』を無断で使用し、翻案権侵害したか否か」である。これについて、一審判決は、原告が主張する「登場人物についての人物設定」は、別紙主張対照表2記載の人物設定の翻案の番号1に端的に示されたように《著者の創作意図若しくはアイデアにすぎない》(同対照表2.7頁)、すなわちいずれも「思想、アイデアにすぎない」から著作権法で保護されるべき表現には当たらないとして、それ以上「人物設定」の創作性の有無の判断にも、また創作的な人物設定の類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、原告主張を斥けた。
 しかし、以下に詳述する通り、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等の執筆・制作において、登場人物の人物設定はストーリーと並び、創作の要となる「著作物のエッセンス」である。そして、人物設定もストーリーと同様、その創作的な表現形式の領域と思想・アイデアの領域とは併存し、両立する関係にある。
 従って、ここでの問題は、ストーリーと同様、原告が原告小説2の中から、著作権法で保護する人物設定に属する要素を正しく取り出して、「登場人物についての人物設定」として主張しているか否かを正面から吟味検討することである。
 しかし、ここでも一審判決は、ストーリーと同様、正面からこれを吟味することを怠った。そして、裏口から、原告主張の「登場人物についての人物設定」の表現は「思想、アイデアにすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア」がそこを占領した以上、もはや「著作権法で保護する人物設定」が占領する余地はないと言わんばかりに、これは「著作権法で保護する人物設定」ではないとして原告主張を斥けた。
しかし、一般に言語著作物の中から人物設定に関する著者の「思想、アイデア」に属する要素を取り出すことは常に可能である。しかし、だからといって、原告主張の「登場人物についての人物設定」の表現が「著作権法で保護する人物設定」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「登場人物についての人物設定」が「著作権法で保護する人物設定」の要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。

2、人物設定の重要性と著作権法上の位置づけ
 人物設定とは、作品の登場人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成することをいう(甲19の2。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」52頁参照)。
 人物設定が、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等の執筆・制作において、ストーリーと並んで作品の創作性の中身・良し悪しを決定する最も基本的にして最も重要な要素であることは、古来、芸術家なら片時も忘れることのない作法である。それは芸術の創作論において、常にくり返し論じられてきた(小説作法の代表的名著とされるEM・フォースター「小説とは何か」の「人物」(甲18の2)。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」の「その九 登場人物をきちんと設定せよ」(甲19の2)。今般提出のシナリオ作法の代表的名著とされる「シナリオ構造論」の「性格の問題」(甲17の4)と大木英吉ほか「シナリオハンドブック」の「性格描写」(甲30の1)参照)。
 従って、以下の通り、「著作権法逐条講義(三訂新版)」に「著作物のエッセンスを指す内面的表現形式」の代表的例示として「ストーリー」が掲げられているのであれば、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等においては、「ストーリー」と並んで「人物設定」もまた《著作物のエッセンス》を指す内面的表現形式[9]である(さしあたり、以下、「著作権法で保護する人物設定」という)。
《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行「著作権法逐条講義(三訂新版)」163頁下から3行目以下)

3、人物設定でも創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある
第2、1で、ストーリーに関する創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にあることを前述した。これは「人物設定」にもそのまま当てはまる。
すなわち、一般に、原告小説のような言語著作物の中から或る要素を取り出して、これが人物設定に関する著作者の「思想、アイデアすぎない」と指摘することは常に可能である。なぜなら、そもそもどんな言語著作物でも、人物設定に関して、その中には質的に異なる次元において、
①.主題(どんな思想、アイデアに基づいて人物設定を構想したのか)
②.人物設定(人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成すること)
③.具体的表現(人物設定を具体的に記述した表現)
の要素がいずれも備わっているからであり(野田高悟「シナリオ構造論」102~125頁参照)、言語著作物の中から人物設定に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すだけのことだからである。言い換えれば、そもそもどんな言語著作物でも、その中から、「人物設定」に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すことも可能であれば、「著作権法で保護する人物設定」に属する要素を取り出すことも可能である。つまり、言語著作物の中で、「著作権法で保護する人物設定」と人物設定に関する著作者の「思想、アイデア」は併存するのであり、両者の存在は排他的なものでなく、両立する関係に立つ。
 そこで問題は、本裁判において、原告が原告小説2の中から「著作権法で保護する人物設定」に属する要素を正しく取り出して、「原告小説2の登場人物の人物設定」として主張しているかである。
 ところが一審判決は、ここでも正面からこれを吟味することを怠った。そして、ここでも裏口から、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現は「思想、アイデアにすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア」がそこを占領した以上、もはや「著作権法で保護する人物設定」が占領する余地はないと言わんばかりに、これは「著作権法で保護する人物設定」ではないとして原告主張を斥けた。
しかし、上述の通り、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現の中から著作者の「思想、アイデア」に属する要素を取り出すことは常に可能である。しかし、だからといって、その表現が「著作権法で保護する人物設定」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現が「著作権法で保護する人物設定」の要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。
 それを正面から論じ、結論を下したのが漫画「タイガーマスク」無断続編作成事件の東京地裁平成6年7月1日決定である。尤も、漫画における人物設定は絵として表現されるため、キャラクターと呼ばれており、キャラクターの翻案権侵害事件として争われた(次頁の新聞は、上記決定を報じた日経新聞72日付記事である)。
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債務者は、タイガーマスク」の続編「タイガー・マスクTHE STAR」はストーリーもキャラクターも「タイガーマスク」と異なるから、自由に制作できると主張した。これに対し、債権者は、たとえ主人公のキャラクターの具体的な表現は変えてあっても、依然、内面的表現形式に相当する当該キャラクターの特徴部分を真似た漫画を無断で制作することは翻案権侵害が成立すると主張した。ここでも、債務者は、外面的表現形式に相当する具体的な表現レベルでは両作品のキャラクターは一見してちがうこと、及び債権者の主張する「当該キャラクターの特徴部分」は、著作権法が保護しない「思想、アイデアにすぎない」と反論した。裁判所は、債権者の言い分を認め、差止の決定を出した。
 この裁判の中で、債権者は、以下に引用する通り、漫画著作物の中には次の3つの領域があり、債権者が主張しているのは、そのうち内面的表現形式に相当するキャラクターであると主張した(甲31.債権者準備書面(1))。

2、キャラクター概念の分類・整理の必要
さらに注意する必要があるのは、一口に「キャラクター」といっても、実際上、この言葉は、一方で、人物像という極めて抽象的なレベルから、他方で、人物の絵そのものという具体的なレベルにまで幅広く使われている。従って、この多様性を含んだキャラクター概念はそのレベルに応じてこれを分類・整理し、その類型に応じて著作権法上の保護を考える必要があり、これを単に「キャラクター」と一口で括って著作権法上の保護を一律に考えるのは適切ではない。 
そして、債権者が本件において著作権法上の保護を求めているのは、キャラクター一般の意味においてではなく、あくまでも或る特定のレベルにおけるキャラクターについてである。
 二、では、漫画著作物を空間的に把握した場合に見い出される、キャラクターの翻案行為的な利用における内面形式とは何か。
それは、一方で単なる人物像などという抽象的なレベルの意味ではなく、他方で人物の絵そのものという具体的なレベルの意味でもなく、いわば、その中間に位置するようなレベルにおいて見い出される具体的な「容貌、姿態、性格、役割」のことである。
ここで言わんとすることを、翻案行為的な利用の典型例である「ストーリーないし筋」との対比の中で今少し敷衍すると、次の通りである。
1、すなわち、小説・映画・ドラマなどにおいては、作品の三要素として
(1)、テーマ(主題)
(2)、ストーリー(筋)
(3)、題材(素材)
が挙げられ(疎甲第二四号証参照)、これらは或る抽象的なテーマがストーリーという形で作品の骨格・特徴を示すものとして(つまり、一段階具象化されて)描かれ、ストーリーはさらに題材を通じて作品のディテール・具体的内容を示すものとして(つまり、もう一段階具象化されて)描き込まれるという関係、つまり右から左へ向かって抽象から具象へと発展する関係にある。
2、そして、この三つの要素は著作権法上の観点から評価すると、次のように分類されている。
    《著作権法上の評価》      《小説・映画・ドラマ》
    アイデア(表現内容)      (1)、テーマ(主題)
    内面形式(表現形式)      (2)、ストーリー(筋)
    外面形式(表現形式)      (3)、題材(素材)
つまり、小説・映画・ドラマにおけるストーリー(筋)とは、アイデアという抽象的な領域におけるテーマ(主題)と、外面形式という具象的な領域における題材(素材)との中間に位置し、著作権法上、内面形式という評価を与えられているものである。このようなストーリー(筋)におけるデリケートな位置、このデリケートな位置こそキャラクター概念の分類・整理においても最も留意しなければならない点である。
 3、すなわち、キャラクターという言葉は一般に、単なる人物像という抽象的なレベルで使うことも、また人物の絵そのものという具体的なレベルで使うこともある。と同様に、このキャラクターを、ストーリー(筋)のときと同じく、単なる人物像などという抽象的なレベルでもなく、かつまた人物の絵そのものという具体的なレベルでもなく、いわば、その中間において見るときに初めて見い出されるようなものとして使うこともある。これが、小説・映画・ドラマにおけるストーリー(筋)と対応する、具体的な「容貌、姿態、性格、役割」のことである。
つまり、小説・映画・ドラマにおける作品の三つの要素は、漫画著作物を空間的に把握した場合に見い出されるキャラクターの三つの用法と比較検討すると、次のような対応関係が認められるのである。
     《小説・映画・ドラマ》            《漫画著作物》
       (1)、テーマ(主題)     ←→     抽象的な人物像
       (2)、ストーリー(筋)   ←→     具体的な「容貌、姿態、性格、役割」
       (3)、題材(素材)       ←→    人物の絵そのもの

4、そうだとすると、漫画著作物を空間的に把握したとき得られるこの三つのキャラクターの用法は著作権法上、次のように評価が与えられることになる。
    《著作権法上の評価》    《小説・映画・ドラマ》      《漫画著作物》
     アイデア(表現内容) →  (1)、テーマ(主題) ←→  (1)、抽象的な人物像
     内面形式(表現形式) →  (2)、ストーリー(筋)←→ (2)、具体的な「容貌、
                                                          姿態、性格、役割」
     外面形式(表現形式) →  (3)、題材(素材) ←→  (3)、人物の絵そのもの

すなわち、漫画著作物には、著作物の内面形式に該当するものとして、ストーリー(筋)と同次元のもの、つまり、抽象的な人物像でもなく、かつ人物の絵そのものでもないような中間のレベルとして具体的な「容貌、姿態、性格、役割」というものが認められるのである。
本件において問われているのは、まさしくこの具体的な「容貌、姿態、性格、役割」の利用のことであり、それ以上でもそれ以下でもない(従って、以下、これを「内面形式としてのキャラクター」という)。
5、その意味で、「ポパイ」事件の東京高裁平成四年五月一四日判決が「附帯控訴人主張に係るポパイのキャラクターなるものは、ポパイの個々具体的な漫画を超えたいわばポパイ像にすぎず、特定の観念(アイデア)それ自体である」として著作権法上の保護を与えなかったのは、まさしく右の「アイデアとしてのキャラクター」のレベルのことを言及したからにほかならず、従って、本件とは直接何の関係もない。》(甲31平成5年9月3日債権者準備書面(1)6~11頁)。

4、「著作権法で保護する人物設定」であるために必要な要件とは何か
 以上から明らかなように、著作権法で保護する「人物設定」であるためには、登場人物に、具体的な「性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等」を与えることである。

5、原告小説への当てはめ
 そこで、以上の「著作権法で保護する人物設定を、原告小説2の登場人物の「人物設定」に当てはめるとどうなるか。
訴状24~28頁の通り、原告は、原告が主張する「原告小説2の6人の登場人物の人物設定」は以下の通りであり、いずれも登場人物に具体的な「性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等」を付与したものであって、「著作権法で保護する人物設定」に該当することが明らかである。
①.徳川斉昭
「世間一般から抱かれている印象とおよそ異なる、感情の抑制のきかない、思いついたことを口から出まかせにしゃべって一歩も譲らない、誰とでも見境なく争う、性格の狷介な」人物として設定。
②.堀田正睦
事務処理能力のある者を幕閣に迎えたい。阿部はごく自然にそう思った。」と阿部に思わせるほど、「実務能力に長けた」人物として設定。
③.阿部正弘
「国体の護持、攘夷鎖国を外交の基本理念に据えた政治家」「通商条約の締結拒否を鎖国体制堅持の第二の防波堤にしようと考え」た、「鎖国体制の堅持を侵すべからざる不動の外交基本理念に据えた、かたくなな体制派、頑固な保守主義者」という人物として設定。
④.ハリス
いっこうに怒りをしずめず、給仕が茶を運んでくると手を振って、「そんな茶など飲めるか」と荒々しくいい、御徒目付をさしては「出て行け」とののしり、何をいっても耳を傾けようとしない」傍若無人の人物として、「目をつむっておもむろに首を振り、「いいやそうではない」といわんばかりの仕草をして見せるのがハリスの反撃の前触れで、その仕草がはじまると、井上も岡田も身を縮ませて、ハリスの破れ鐘のような怒声が頭上をとおりすぎていくのを待たねばならなかった」喧嘩腰の人物として設定。
⑤.孝明天皇
「水戸学崇拝者も顔負けの過激な攘夷主義者」であり政治に敏感な」人物として設定。
⑥.将軍家定
「(家定は)馬鹿ではなかった。常識のあるごくふつうの男で、統治、国を治めるということに関していうなら、少なくとも自分には統治能力はない、余計なことはいわずに宿老に任せておくのがいいと判断する能力はもちあわせていた」という、実際は冷静に回りの状況を読める人物として設定。

6、人物設定の創作性
 では、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」について、どのような創作性が認められるか。
 この点につき、原告準備書面()4~7頁で詳述した通りなので、ここではくり返さない(一審判決別紙主張対照表2の7~12頁【創作性】参照)

7、人物設定の類似性
一審判決別紙作品対照表2の7~8頁「3 人物設定の翻案」記載の表現を対比すれば、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」と原告主張の「被告番組2の登場人物の人物設定」が類似していることは明らかである。
類似性が認められる両作品の人物設定について、上記6で述べた通り、原告の創作性が認められる以上、両作品の「創作的な人物設定」同士の類似性が認められるのは当然である。

8、小括
 以上の通り、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」について、一審判決の門前払いの誤りをただし、「人物設定の創作性」と「人物設定の類似性」という土俵の上で正しい判断をすれば、原告小説2の6人の登場人物のいずれについても翻案権侵害が認められる。

9、その他1(エピソードの翻案)
(1)、原告小説2の「エピソードの翻案」
 一審判決がこれを否定した理由は「原告小説のシークエンスの翻案」と全く同じである。すわなち、原告が、「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説2のエピソードのストーリー』を無断で使用し、翻案権侵害した」と主張したのに対し、一審判決は、《歴史上の事実についての見解か、著者の創作意図若しくはアイデアにすぎないから、著作権法で保護されるべき表現には当たらない》(別紙主張対照表2.12~13頁)としてストーリー性を否定し、それ以上、原告小説のエピソードのストーリーの創作性の有無の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、原告主張を斥けた。
 従って、これに対しても、本書面でこれまで詳述した「原告小説のシークエンスの翻案」に関する主張がそのまま妥当する(6~32頁参照)。
 そこで、訴状28~29頁の各表に記述された原告小説2の各エピソードを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表2の12~14頁【ストーリー】参照)は、以下の通りいずれも5つのWを備えた表現であり、従っていずれもストーリーの要件を満たすものである。
①.原告小説2のエピソード1
出来事
5つのW
原告小説2のエピソード1の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定に、ハリスの出府の提案をする
Why(なぜ) 
ハリスと通商条約の締結を進めるため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のエピソード1の出来事ⓑ
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田に「そ、そうせい」と許可を出す
Why(なぜ) 
将軍家定は何事も老中の意見に従っていた

②.原告小説2のエピソード2
出来事
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定に松平越前守の将軍補佐役の許可を求める提案する
Why(なぜ) 
将軍の世継ぎとして一橋慶喜を推進するため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定の「そ、そうせい」を期待
Why(なぜ) 
いつものとおりと思い
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事ⓒ
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
想定外の「掃部を大老に任ずる」と言う
Why(なぜ) 
将軍の座を追われかねないと懸念したから

 (2)、原告小説3の「エピソードの翻案」
 上記(1)と同様である(一審判決別紙主張対照表3.8~11頁参照)
 そこで、訴状39~40頁の各表に記述された原告小説3の各エピソードを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表3の8~11頁【ストーリー】参照)は、以下の通りいずれも5つのWを備えた表現であり、従っていずれもストーリーの要件を満たすものである。
①.原告小説3のエピソード1
出来事
5つのW
原告小説3のエピソード1の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
天明7年
Where(何処で)
公の席
What(何を)
舅の重豪が聟家斉にひれ伏さなければならない
Why(なぜ) 
家斉が将軍となったため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のエピソード1の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
天明7年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
隠居を思い立ち実行
Why(なぜ) 
公の席で家斉にひれ伏すのが面倒と考えたため

②、原告小説3のエピソード2
出来事
5つのW
原告小説3のエピソード2の出来事
Who(誰が)
調所
When(いつ)
いつも
Where(何処で)
どこでも
What(何を)
笑みをたやさない表情をしていた
Why(なぜ) 
そういう人柄であったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のエピソード2の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
或る日
Where(何処で)
寛政10年
What(何を)
調所に笑悦と改名を命じた
Why(なぜ) 
笑みをたやさない表情をしていたから

③.原告小説3のエピソード3
 一審判決別紙主張対照表3の10頁【ストーリー】のⓐとは登場人物に関する出来事ではないので、ストーリーという主張は撤回し、改めて、ⓐとⓑからなる構成として翻案の主張をする。

10、その他2(部分複製)――二重基準への疑問――
 被告が被告番組制作にあたって、原告小説に依拠(参照)したことを認めたことをいいことに、原告は訴状で、、被告番組に見つかった原告小説と同じ単語、同じ表現をことごとく著作権侵害として取り上げた訳ではない。あくまでも部分複製の成立要件[10]を踏まえ、原告小説のうち「まとまりのある創作的な外面形式をそのまま利用したもの」に限って、部分複製の成立を主張したものである(訴状14頁・同29~30頁・同40~42頁)。
 ところが、一審判決は、このうち、原告小説2の部分複製6と原告小説3の部分複製6についてだけ複製権侵害を認め、それ以外は《アイデアが共通であるにすぎず》《具体的表現においても‥‥ごくありふれた表現である》(別紙主張対比表1.15~16頁)として複製権侵害を認めなかった。
しかし、原告にとっては、なにゆえこの2つだけ「創作的な表現が共通」であるとして複製権侵害が肯定され、残りは「アイデア・ごくありふれた表現が共通」であるとして複製権侵害が否定されたのか、その合理的な根拠がさっぱり理解できない。そこには2つの判断基準が使い分けられたとしか思えない。
この二重基準(ダブルスタンダード)ではないかという疑いについて、今後、具体的に補充主張立証する予定である。

第4、法律論
翻案権侵害
(1)、シ-クエンスの翻案
 第2で前述した通り、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はいずれもストーリーの要件を満たすものであるから、これについて、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

(2)、人物設定の翻案
 第3で前述した通り、原告が主張する「原告小説2の6人の登場人物についての人物設定」はいずれも「著作権法で保護する人物設定」の要件を満たすものであるから、これについて、「人物設定の創作性」と「人物設定の類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

(3)、エピソードの翻案
第3、9で前述した通り、原告が主張する「原告小説2及び3のエピソードのストーリー」は、原告小説3のエピソード3を除き、いずれもストーリーの要件を満たすものであるから、これについて、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

2、複製権侵害(部分複製)
 第3、10で前述した通り、一審判決が原告主張の部分複製のうち2つの部分について複製権侵害を認めたのであれば、それ以外の部分についても同様に複製権侵害を認めてしかるべきであり、これを区別する合理的な理由がない。その詳細については、追って主張・立証する。

3、著作者人格権侵害
(1)、同一性保持権侵害
 言うまでもなく、同一性保持権の侵害とは、既存著作物の著作権者に無断であれ、許諾を得てであれ、既存著作物の表現形式を利用する場合を前提にして発生する法律問題である。その意味で、原告主張のシークエンスの翻案の全部と部分複製の殆どを認めなかった一審判決が同一性保持権侵害を否定したのは首尾一貫している。
 従って、二審で、一審判決が取り消され、シークエンスの翻案などの無断使用が認められる場合には同一性保持権の侵害もまた認められるのが首尾一貫しており、それだけのことである。

(2)、氏名表示権侵害
 氏名表示権侵害も、(1)と同様、既存著作物の表現形式の利用を前提にしている。従って、二審で、シークエンスの翻案などの無断使用が認められる場合には氏名表示権侵害もまた認められることになる。

4、補足――翻案権侵害の判断基準に関する橋本論文の光と影について――
(1)、表現形式の創作性の判断の仕方
第2、1の脚注6でも引用したが、小泉直樹上智大学教授が、江差追分事件の最高裁判決等の「二次的著作物について」講演した中で、《翻案権侵害とは何か、ということについて関心を寄せられるにあたって画期的な役割を果たした論考として、橋本英史「著作権(複製権、翻案権)侵害の判断について()()」(判例時報1595号20頁・1596号11頁(1997))》を紹介している(コピライト2002年6月号18頁。以下、橋本論文という)。
橋本論文は、著作物の創作性の有無を判断するにあたって、次の通り注意を喚起する。
《原告の著作物の表現形式と被告の作品の表現形式と対比して共通するものが、著作権として保護される創作的な表現形式でなく、アイデア等そのものにすぎないのかを検討することが必要になることがある。この際に、共通する表現形式から、アイデア等そのものを抽出する(差し引く)と残った表現形式には創作性は認められないかどうかを確認するという検討方法をとる場合には、前述したように、微視的に、例えば個々の用語、一文など細切れに分離してこの評価を加えていくと、結局各々のすべてがアイデア等(ないしアイデア等とありふれた表現)に属してしまい、その表現形式上の創作性がすべて否定され、正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、》(() 判例時報1596号15頁)
 この指摘は正しい。なぜなら、第2、1で前述した通り、一審判決がそうだったように、「思想、アイデア」と「表現形式」があたかも同じ次元に食うか食われるかのごとく排他的に存在するものであるかのようにみなして、ひとたび「思想、アイデア」か見出されたら、いわばその占領によって、もはやその思想、アイデアに関する「表現形式」は存在する余地はないと考える見解(さしあたり今「差し引き説」と呼ぶ)ことは、芸術論(作品の構造分析論)に照らして誤りであることは明らかだからである。
 ただし、橋本論文はそのあと、「表現形式の創作性」の判断のやり方について誤謬に陥っている。それは次のくだりである。
《‥‥正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、ここでも総合的に創作性を評価することが重要となる(原告代理人注:これをさしあたり「総合説」と呼ぶ)。
‥‥端的に、著作物は、思想、感情等が創作的に表現されて具象化したものであり、思想等はその表現と一体となって創作的な表現形式を構成しているものであるということもできよう。
 従って、原告の著作物の創作的な表現形式と被告の作品の表現形式とを対比する場合に、思想、感情等についても対比して考察する必要があるし、著作物の特性に応じ、当該著作物の表現形式の創作的価値を理解するために、これと一体をなす思想、感情等の独創性等その個性(創作性)の程度も評価することが重要となることがある。》(15頁2段)
 言うまでもなく、著作物の表現形式を制作するに際してその源泉となった著作者の思想、感情抜きにはその表現形式の創作性について理解することは不可能である。その意味で、著作物の表現形式の創作性の有無を判断にあたって、その表現形式の源泉となった思想、感情について考察するのは当然である。しかし、仮に思想家は別としても、少なくとも芸術家にあっては、著作者がいかに高邁、独創的な「思想、感情」を抱こうとも、それが原稿用紙やキャンバスに表現された著作物の表現形式が独創的なものであることを保障するものでは全くなく、その反対に、「平和が大切」「命が宝」といった、いかにもありふれた月並みの「思想、感情」を抱いた場合でも、そこから「ゲルニカ」「夢千代日記」といった独創的な表現が作り出されることは可能である。すなわち、原告準備書面()で引用した以下のとおり、芸術の創作において、著作者の思想、感情の独創性とその表現形式の創作性とは直接的には何の関係もなく、本来、両者は別個独立の問題である。
〔 文豪ドストエフスキーは、自己の小説「白痴」について次のように語っている。
《この小説の根本の観念は、一人の真に善良な人間を描く事にある。世界中にこんな難しい仕事はない》(小林秀雄「「白痴」についてⅠ」78頁) 
 つまり、創作上の課題とはいかにして「一人の真に善良な人間を描くか」という表現方法の点にあって、どのような「一人の真に善良な人間」を表現するかという表現内容ではない。
 文芸批評家の柄谷行人も、夏目漱石の作家としての創作性についてこう言っている。
《現実の生きた人間を造型しようとしたとき、漱石ははじめて小説家としての苦しみを経験しなければならなかった。彼の「思想」が変わったわけではない。現実認識が変わったわけではない。四十歳に近い年で書きはじめた男に、いかなる人性上の変化をも期待できるわけがないのだ。漱石の深化はもっぱら表現者としてのそれであり、その意味で驚嘆すべきスピードで成熟を とげたのである。むろん表現上の成熟は思想上の成熟である(原告代理人注:但し、その逆は真とは限らない)。だが、その「思想」は書くという作業にお いて成熟したのであり、また作家の成熟はそれ以外にはあり得ない。‥‥(中略)‥‥
 漱石には何を書くかということは簡単な問題だった。ある意味では彼の小説のモチーフは少しも変わっていないし、作家としての漱石の心を悩ましたのは、誰でも例外のないように、いかに書くかということだったはずである。》(「漱石の構造」345頁。348頁。アンダーラインは原告代理人)
同じく、文芸批評家の小林秀雄も、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の表現について、こう言っている。
《成る程、「善悪の彼岸」を説く、ラスコーリニコフの犯罪哲学は、シェストフの言う様に、全く 独創的であり、ニイチェの発見に先立つ三十五年のものかも知れぬが、作者がラスコーリニコフの実験によってみせてくれる、主人公の正確な理論と、理論の結果である低脳児の様な行為との対照の妙にくらべれば言うに足りないのである。
  重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういう具合に生きるかという事だ。作者が主人公を通じて彼の哲学を扱う手つきだ、その驚嘆すべき狡猾だ。》(「「罪と罰」についてⅠ」43頁)〕(原告準備書面(3)5頁5行目~6頁10行目)
 以上の通り、創作性に注目するとは、芸術論においても著作権法においても、ひとしく表現形式のそれに注目することである。ところが、橋本論文は、思想、感情(表現内容)の独創性に注目して、表現形式の創作性の判断にあたっても、思想、感情の独創性も表現形式のそれと同程度に取り入れて、両者を総合して判断する立場を取る。しかし、これは上記のとおり、芸術論として誤っているのみならず、法律論としても、翻案権と衝突する表現の自由に対する不当な制約をもたらすという意味で不当である[11]と言わざるを得ない。
 尤も、これに対しては橋本論文から次の批判がある。
《著作権侵害の判断において、原告の創作性が認められる表現形式から、その思想、感情、事 実等や公有の文化的所産は保護の対象とならないことを理由として、これらを分離して評価の対象外に置いて、残余の表現形式とを対比するという手法は、原告の創作的な表現形式を空虚なものとして評価するものであって正当ではなく、右のとおり、これらを総合して評価すべきである。》(15頁3段)
 しかし、差し引き説が間違いだとしても、そこに残っているのは総合説しかないと考えるのは早計である。まだ第三の見解が可能だからである。それが次の「分離説」である。
①.創作性の判断対象は専ら著作物の表現形式である。
②.その創作性の判断にあたって、「著作者の思想、感情(表現内容)」「著作物に記述された事実自体」を判断資料として斟酌、参考にすることはできる。ただし、それはあくまでも表現形式の意義を正確に理解するための参考資料にとどまる。

(2)、内面的表現形式の創作性の判断の仕方
 橋本論文は表現形式と表現内容を総合して創作性を判断する立場という意味で、「総合説」のいわば最右翼である。これに対し、同じ「総合説」でも内面的表現形式と外面的表現形式を総合して、翻案の場合の創作性を判断するという立場がある(さしあたり今、橋本論文を総合説A、後者を総合説Bと呼ぶ)。
 総合説Bが登場した背景には、もともと著作物の本質論から、著作物の表現形式を内面的表現形式と外面的表現形式に区分し、後者が変更されても、前者が同一である限り翻案権侵害を免れないという伝統的な見解(加戸守行「著作権法逐条講義」など)に対し、内面的表現形式と外面的表現形式を区別するのは困難という批判として登場したものである。
 しかし、たとえ総合説Bであっても、表現内容と表現形式の区別は依然困難であることには変わりなく、要するに、芸術等の著作物を対象にして法秩序の規律を設ける以上、これら表現内容と内面的表現形式と外面的表現形式という区別はどのみち避けて通れることができない宿命的なアポリア(難問)なのである。
 しかも、表現内容と内面的表現形式と外面的表現形式との区別が困難に思える最大の原因は一般的に言えば、我妻栄が指摘した(4~5頁で前述した)以下の通りであり、本件に即して言えば法曹関係者が芸術に十分通じていないことにある。
《ここにおいて、一面、従来の判例及びこれに対する学者及び社会一般の批評を仔細に観察し、他面、活路を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、もって、具体的な決定を誤らないように努めなければならない。》(民法講義Ⅰ.271~272頁)
すなわち、芸術作品等の著作物の構造に対する有益な観察(芸術論・作品の構造分析論)が未だ著しく不十分なため、裁判の中で確信をもって作品の構造を理解し、作品の分析を実行することができないため、残された手段として、直感的な判断に頼らざるを得ず、その結果、この直感的な判断を正当化する理論として総合説が登場せざるを得ない。
その結果、総合説B(総合説Aも同様だが)によれば、いかなる場合に翻案権侵害になり、いかなる場合にならないのか、その判断基準は曖昧模糊としたままで、これでは法律《の適用が裁判官の個人的思想による区々な結果となってはならない》(民法講義Ⅰ.271頁終わりから2行目以下)と我妻栄が危惧した事態を招くおそれが大きい。
 その上、総合説Bはそもそも翻案権が著作権法に登場した起源(立法趣旨)を忘れた見解である。複製権中心主義でやってきた著作権法に、新たに翻案権が登場した理由は、一言でいって、複製権侵害の隠れ蓑(脱法行為)を封じ込めるためであった。すなわち、
《翻案という美名のもとに他人の著作物が利用されることが横行し、その防止は国際的に大きな課題であった。他人の著作物をそのまま複製するということは、実際には犯罪になるので、正面から行なわれはしなかったが、これをもぐって、原著作物の全部または一部を改作して、すなわち翻案して利用されることを防がねばならないとされた。》(中川善之助ほか「改訂著作権」128頁)
 この翻案権の起源(立法趣旨)に立ち返れば、外面的表現形式が無断使用されたのであれば、それだけでストレートに複製権侵害を問えばよく、それをわざわざ内面的表現形式との総合判断をして翻案権侵害が成立するかどうかなどと問う必要は全くない。
他方で、ストーリーや人物設定などの内面的表現形式が無断使用されたのであれば、それだけでストレートに翻案権侵害を問えばよく、それをわざわざ外面的表現形式との総合判断をして翻案権侵害が成立するかどうかなどと問う必要も全くない。なぜなら、翻案権が登場したのはもともと外面的表現形式の無断使用である複製権侵害が問えない時にその脱法行為防止のためである以上、改めて、外面的表現形式を持ち出す必要なぞないからである。つまり、翻案権の起源を思い起こせば、複製権侵害と翻案権侵害とはそれぞれ己の果たす職責を明確に分担することを自覚し、それぞれ判断基準の明確化に努めるべきである。
以上をまとめ、本件のごとき芸術作品の翻案権侵害裁判のあるべき姿を標語的に言えば次のようになろう――美(芸術)のことはまず美(芸術)に聞け。それから、善(法的)の判断に進め、と。
 芸術論・作品の構造分析論の成果を踏まえて明確な基準を立てようとする分離説こそ、今後、芸術作品の翻案権侵害裁判がめざす理想の姿である。

第5、結語
 以上の通り、一審判決の誤りは明らかであり、取消しを免れない。
以 上



[1] シークエンス(節)とは、一般に、小説や映画や番組の本筋を構成する個別の挿話(まとまりを持った小話)をいう(訴状7頁。甲17の2.野田高悟「シナリオ構造論」134頁)。
[2]念のため確認しておくと、これは江差追分事件の一審・二審判決が示した基準であっても、最高裁判決の要旨に示されたものではない。すなわち最高裁判決は積極的にこの基準を示していない。
[3] 《東京地裁・同高裁の知的財産専門部と最高裁が、右のようなほぼ同一の判断枠組みを採用しながら全く正反対の結論に至ったことからも分るように、この判断枠組みの事案への当てはめは容易ではない。この困難性は、既存著作物の「本質的な」特徴を直接「感得」できるか否かという、多分に主観的な評価が翻案権侵害の成否を左右する決め手となっていること、そして、そもそも保護されるべき創作的表現とそこから除外される事実やアイデアの区分が、実は価値判断に満ちていることに起因するものと思われる。今後は前記の一般的判断枠組みを踏まえて、そこから先の具体的な判断手法を各著作物類型ごとにさらに精密化し、結論の予測可能性を高めていくことが求められよう。》(コピライト2001年12月号19頁神戸大学助教授島並良「言語著作物に関する翻案の意義」)。
[4] 「たしかに、コピライト488号19頁で島並良・助教授が指摘されるように、『保護されるべき創作的表現とそこから除外される事実やアイデアの区分が実は価値判断に満ちている』。」(大家重夫・判例評釈「テレビドキュメンタリー番組のナレーションの一部が、江差追分に関するノンフィクション「北の波濤に唄う」の翻案権侵害等とした1・2審判決を覆し、翻案でないとした事例」)
[5] 例えば《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行著「著作権法逐条講義(三訂新版)」163頁下から3行目以下)
[6] 同様の指摘をしたのが橋本英史「著作権(複製権、翻案権)侵害の判断について()」(判例時報1596号15頁《原告の著作物の表現形式と被告の作品の表現形式と対比して共通するものが、著作権として保護される創作的な表現形式でなく、アイデア等そのものにすぎないのかを検討することが必要になることがある。この際に、共通する表現形式から、アイデア等そのものを抽出する(差し引く)と残った表現形式には創作性は認められないかどうかを確認するという検討方法をとる場合には、前述したように、微視的に、例えば個々の用語、一文など細切れに分離してこの評価を加えていくと、結局各々のすべてがアイデア等(ないしアイデア等とありふれた表現)に属してしまい、その表現形式上の創作性がすべて否定され、正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、》
[7] より敷衍すれば、この問題は、カントが200年前、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(真か偽かという認識的判断)、②善(善か悪かという道徳的判断)、③美(快か不快かという美的判断)という異なる独自の3つの次元の判断(従って、それらは併存し、両立する)を持つことを明らかにし、その各々の判断について、それまでの判断のあり方を批判した(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)ことにつながる(柄谷行人「美学の効用」〔定本柄谷行人集4所収〕153~154頁。同・定本柄谷行人集5「トランスクリティーク」173~174頁参照)。
[8]ストーリーの要件について語った舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」63頁(甲19の4)も同様。
[9] とはいっても、原告は本裁判で内面的表現形式という抽象的・不特定概念にどうしてもこだわる積りはない。さしあたり、著作権法上保護される範囲に含まれる表現形式としての「人物設定」のことを指すのであって、その意味を込めて、ここでは「著作権法で保護する人物設定」と呼ぶ。
[10]「冷蔵倉庫設計図」事件大阪地裁昭和54年2月23日判決。加戸守行著「著作権逐条講義」三訂新版170~171頁参照。
[11] 同旨の見解は本書面5頁脚注4の大家重夫の判例評釈。