2015年7月31日金曜日

2015年度映画大学集中講義のレジメ2:著作権法の現在と未来(2015.7.23)



21世紀の著作権法とは何か?その未来はどこにあるか?

2015年7月23日

レジメ→ワード版



1、イデオロギーとは 法律とは
(1)、イデオロギー
 政治や社会のあるべき姿についての理念の体系(知恵蔵2015)。
       ↑
(柄谷行人)

一見して誰も反対できないような普遍的な言説のこと
普遍的な言説に対しては、何(What)が語られているかではなく、誰(Who)が語っているのかを読むことが肝心。

∵ 単に彼らの利害にすぎないものをあたかも普遍的なものとして表明したのがイデオロギーにほかならないから。
 
(2)、法律
 法律はイデオロギーの典型。そこでは、常に誰かの利害でしかないことが普遍的な言葉で語られている。
著作権法とは、著作権ビジネスの覇者である産業資本家の利害を普遍的な言葉(コンテンツを創作した著作者・実演家を保護し、芸術・文化を育成する)を使って擁護したもの。

2、著作権法の「市民革命」とその条件
 著作権法は、情報資本主義が本格化した1980年代から毎年盛り沢山、華々しく法律改正をくり返してきた。しかし、その内実は著作権法の原型ができた1710年のイギリスのアン法以来、300年間本質的には何の進歩・変容もない。変わったように見えるのは新しいテクノロジーの出現だけである。
 著作権法の本音は著作権ビジネスの産業資本家たちの利害を守ること、つまり彼らの望む産業経済秩序を維持することにあるのだから、技術革新により新しい複製技術が出現し、それが新しい著作権ビジネスの経済秩序を形成する時、この新しいテクノロジーを用いた経済秩序の維持のために著作権法の改正が次々と実施されるのは当り前のこと、それは退屈ですらある(おまけに、ただでさえ悪文の著作権法がますます分かりづらくなる)。
 例えば、複製技術として、音楽でレコードと蓄音機が発明され[1]、映画でフィルムと映写機が発明され、新しい音楽産業、映画産業が出現したとき、無断複製(海賊版)による音楽産業、映画産業の賭場荒らしを防ぐ(産業秩序維持の)ために、レコードや映画の無断複製を取り締まる法律を作る必要が生じる。ただそれだけのこと。
しかし、著作権法の本当の進歩、恐るべき変容はそんな華々しいところにはない。

 著作権法の真に革新的な進歩・変容とは、著作権法の表向きの目的(著作者・実演家を保護し、芸術・文化を育成)、表向きの主役(著作者・実演家)、表向きの性格(人権擁護)を、名実共に著作権法の目的、主役、性格に転換してしまうような進歩・変容のことである。

 これは著作権法がこの世に誕生して以来三百年の間一度もなかったような進歩・変容である。いわば「著作権法の市民革命」である。この市民革命はいかにして可能なのか。

そのためには、
第1に、客観的(物質的、経済的)条件である「目標に相応しい経済システムの出現」
第2に、主体的条件である「目標に相応しい理念・アイデア・人の出現」[2]
の2つの条件が必要。
このうち、第1の条件は既に実現した、インターネットというシステムの出現によって。
 30年前、グーテンベルグの活版印刷術の出現を上回る、世界史上未曾有の画期的な出来事、インターネットの出現[3]である。これが「著作権法の市民革命」を促す物質的条件をもたらした。これがいかなる意味で画期的で、市民革命の物質的条件なのか。

 それはコンテンツ(著作物)の生産・流通過程にコペルニクス的転回をもたらしたから。

 従来、著作権ビジネスは、コンテンツを制作する著作者とこれを利用する一般ユーザーとの間に、コンテンツを複製・頒布する業者が介在し、彼らの存在なしにはコンテンツを広く世に提供することは不可能だった。なぜなら、コンテンツの生産・流通(複製・頒布)のためには、多額の資金と組織が必要であって、それは個人の著作者の手に余ることであったから。

 実は、(今から思えば)こうしたシステムに支えられて、著作者と一般ユーザーとの間に介在して、コンテンツの流通を支配する出版社、レコード会社、映画会社、テレビ局などの企業が著作権法の主役として活躍し得たのである。つまり、真ん中に主役を置いて、コンテンツが著作者から主役を通して一般ユーザーに流通するという構造、これが著作権法がこれまでずっと前提にしてきた基本構造だった。
  

 その後、テクノロジーの進歩に伴って、家庭内録音・録画の機器が普及し、かつてはあり得なかった一般ユーザーレベルにおける広範な私的複製が一時期大問題となったが、しかしこれによっても、この基本構造自体が揺らぐことはなかった。
 
 ところが、変化は全く思いがけないところからやってきた。それが元々軍用目的で始まったインターネットというテクノロジーである。

 このテクノロジーが画期的なのは、これまでコンテンツを世に流通させるためには、「資金と組織を擁する企業の介在」が不可欠であったのに対し、インターネットの活用によって、著作者は、個人として、コンテンツを広く一般ユーザーに直接提供することが可能になった。この新しいシステムの出現に伴って、これまでコンテンツの流通に介在し威張っていた企業は理論上は粗大ゴミのごとき無用の存在に転落する。それはまた、同時に、これまでの著作権法が大前提にしていた基本構造を根底から破壊するものであった。その結果、著作権法の目的・本質、主役、性格などに決定的な変容を招来することになる。


 これが、この間の著作権法の改正では全く捉え切れない、日夜じわじわと浸透している著作権法の本質的な進歩、恐るべき変容を実現するための物質的条件である。

 以上から、インターネットの時代は、創造的なコンテンツ(著作物・実演)を制作できる優秀な個人の著作者・実演家が制作と流通を自らコントロールすることを可能にする時代である。つまり個人が主役になれる時代である。その物質的基盤はそろった。残るは、第2の主体的条件「目標に相応しい理念・アイデア・人の出現」である。
インターネットの画期的な物質的基盤を前提にして、今後、著作権法の目標は、
(1)、主役は、名実共に、個人としての著作者・実演家であり、
(2)、性格は、名実共に、個人法=著作者という個人を保護するための法であり、
(3)、目的は、名実共に、個人としての著作者・実演家の権利を擁護するためのもの。

 この目標に相応しい理念とは「創作・実演により現実に価値を生み出した個人にその創作活動・実演活動に相応しい権利と自由を保障せよ!」である。
この個人の権利保障という理念の復興・再生という意味で、インターネット時代こそ著作権法ルネサンスと呼ぶに相応しい。


3、著作権法の市民革命の主体的条件の具体化(アイデアと人)
 主体的条件である「目標に相応しい理念」を、さらにアイデア・人のレベルにおいて具体化する必要がある。
この理念に基づいて著作者(クリエーター)・実演家(アーティスト)が始める取り組みは「新しい芸術運動」である。それはもちろんコンテンツ(著作物・実演)の質における新しさをめざすものであるが、それと同時に、コンテンツ(著作物・実演)の制作・流通のシステムを過去のものから根底的に変革することをめざすものであって、その点において不撓不屈の開拓者であることがこの取り組みの成否を握る重要な鍵となる。

参考実例
◆海賊党
(1) もともとインターネットは情報の共有のためのもの。情報の独占をめざす著作権・特許と衝突・対立するのは必然。最終的には、情報の共有と独占をどう調整するかという問題。  インターネットが生み出した第三身分とは何か=エンドユーザの登場。


(2)、歴史
 2005年、スウェーデンは、インターネットを通じてソフトウェアや映画などをファイル共有することが違法とする法律が制定。その結果、100万人のファイル共有者たちは犯罪者扱いとなった。これに反発した若者たちがファイル共有の合法化を公約とする海賊党を結党。                              スウェーデン海賊党旗
スウェーデン海賊党の活動に鼓舞され、瞬く間に40カ国以上の国々で海賊党が結党。
海賊党による国際組織海賊党インターナショナルも組織。2009年6月の欧州議会議員選挙で、海賊党は1議席を獲得。
            ドイツ海賊党旗



メンバーはインターネットを使いこなす30歳前後の若者が中心。

(3)、主張
著作権法:
①「正直者の寝室(プライベートな空間)に忍び込むな」→ファイル共有の完全合法化・無料化。
②「著作権の保護期間が長すぎる(死後50年・70年)」→5年で十分。
特許法→廃止。
∵製薬業界の研究開発の3分の2が、新薬開発ではなく、ライバル企業の特許を回避するための。もし特許法がなければ、これを本来の新薬開発に充てるか、薬代を安くできる。
参考:海賊党党首に聞く
動画(活躍!ドイツ海賊党 ~ネット世代の政治のゆくえ~
スェーデン海賊党→ウィキペディアの解説

ドイツ海賊党→ウィキペデディアの解説 
書籍 浜本隆志「海賊党の思想: フリーダウンロードと液体民主主義」(2013.6.25)
       液体民主主義について

 

◆映画:新藤兼人 彼の起業の検討 詳細→こちら


◆出版:批評空間社
【設立の動機】
 資本制経済において、著作権ビジネスは、他者(著作者・実演家)は利潤追求のためのたんなる手段としてしか扱われない。これに対し、批評空間社は他者を「手段としてのみならず、目的(自由な主体)として扱う」(カント)ことを目指し、生産にかかわる者が皆で出資して組織を立ち上げ、組合内においては、各人がその出資額にかかわりなく、平等な経営議決権をもって、組合事業を運営しようとした。これが協同労働・協同経営、つまり生産協同組合の基本理念といわれるもの。

【協同労働・協同経営の追求】
 ただし、日本の法律制度はこの理念を明文化していない。そこで、問題は、「自由で平等な生産者たちのアソシエーション(協同労働・協同経営)」を正面から認めていない現在の法律制度の中でいかに具体化していくか。

 この自由平等の理念は、次の2つの面において確保されなければならない。

α.組織内部における自由平等

その最低限の要請として、生産者たち同士は、組合への出資額の多少に拘らず、組合の運営について全て平等な議決権を有すること(一人一票の議決権)。

β.組織の外部に対する自主独立
生産者たちは、組合の外部との関係でも、組合への出資者(出資者は生産に従事するわけではなく、その意味で「協同生産者」でない)に対し、自らの運営決定権を失って彼らの支配の下に置かれるようなことがない。

5人の協同生産者と資金提供者として金融機関・映画会社・テレビ局・広告代理店

  


αは実現。しかし、βは、銀行に生産者A・B‥‥の個人財産を担保に提供させられたり、毎月の返済に追われて自転車操業を強いられる.。或いは作品の著作権は全て資金提供者の手に渡り、そのため、たとえその作品が大ヒットしても著作者たちの元には利益が何も還元されない。まさに「他者を手段としてのみ扱う」関係に追い込まれる。

5人の協同生産者と5人の資金援助者
   全員が株式会社の株主となる場合


βは、株式会社という資本主義が生み出した最大の魔法(金融機関とちがって出資した資金を出資者に返済しなくてよい)が活用でき、毎月の返済に追われることがない反面、
αは、一千万円の資金援助者Pは協同生産者でもないのに会社の共同所有者と認められてしまい、一人で全議決権の3分の1を保有。50万円を出資した協同生産者AやBの20倍の議決権を持つ。これでは協同組合の原則である協同生産者の「一人一票の議決権」から大きく逸脱し、協同生産者は会社の運営決定権を失う恐れがある。さらに、協同生産者同士の間でも議決権に不平等が生じる。

これらの課題を全て解決して初めて「自由で平等な生産者たちのアソシエーション(協同労働・協同経営)」が実現。

①.協同生産者は日々返済に追われることもない、
②.自らの運営決定権を失うこともない、
③.作品に対する支配権(著作権)を失うこともない
 さらにもう1つ、
④.今回の資金援助者は批評空間社の経営に共鳴した市民であり、彼らを危険な立場に置く事態は回避する必要があった。つまり、彼らに無限責任(もし経営が失敗した場合には、単に出資額にとどまらず、彼らの全個人財産までその借金の支払にあてられる)を負わせるうことはできない、出資額の限度でしか責任を負わない(有限責任)でなくてはならない。
そのため、彼らに「生産協同組合としての民法上の組合」に参加し出資してもらうことや、「投資組合としての民法上の組合」に参加し出資してもらうことは、彼らに無限責任を負わせることであり
[4]、そのやり方は採用できなかった。


そこで、現在の法律制度の下で、以上の4つの要請を全て満たすアイデアがあるだろうか――これが批評空間社が直面し解決しなければならない課題だった。

解決のカギは「投資」にあった。つまりカギは「(生産者の運営決定権を失う)投資」にはなく、同時に「(生産者の運営決定権を失わない)投資」にしかなかった。それは、批評空間社が批評空間社に投資すること、つまり、批評空間社に投資するための組織(投資組合)を批評空間社自らのイニシアチブで作り上げることによってのみ可能だった。
予定の出資額(Aは100万円、Bは150万円、Cは200万円、Dは250万円、Eは300万円)のうち、全員が10株50万円分ずつ株式会社の株を保有することにする。残りの出資額(Aは50万円、Bは100万円、Cは150万円、Dは200万円、Eは250万円)は、資金援助者の人たちと一緒に、有限投資組合に出資する。この有限投資組合から批評空間社に出資する。


株式会社

以上により、
αは、生産者全員が発起人になって同数(10株分=50万円)の株式を引き受けて株式会社を設立し、生産者以外には上記有限投資組合が唯一の株式引受人となり、
βは、批評空間社主導の有限投資組合を設立し、そこに、生産者全員の各自10株分を引いた出資金と有志の人たちの出資金全額を出資することにより、
α(組織内部における自由平等)とβ(組織の外部に対する自主独立)の両方の問題を解決した。
 つまり、批評空間投資組合(資金調達のための組織)と株式会社批評空間社(生産活動のための組織)の総体を、生産協同組合としての批評空間社と考えた。


設立手続の年表
2000
1月上旬
批評空間社を生産協同組合の方式で立ち上げることを決定。
以後、具体的な形態を模索・検討に入る。

4月
本格的な法律の検討に入る。

6月
具体的な形態として、資金調達は投資事業有限責任組合、営業形態は
株式会社の案、ほぼ固まる。

10
投資事業有限責任組合の契約書案文の作成・検討。

10月中旬
発起人間で設立契約書(資金調達は有限責任組合、営業形態は株式
会社を内容とする)の調印。

10月末~
第三者に出資の依頼(年内いっぱい)

12月上旬
有限責任組合の銀行口座開設。以後、出資の振込開始。

1223
以後、出資者、順次 有限責任組合契約に署名捺印。

1229
株式会社批評空間の定款(案)作成。
2001
1月末
有限責任組合契約の署名捺印・出資ほぼ完了

2月2日
投資組合の登記申請

同月9日
同 登記完了

同月12
株式会社批評空間の設立手続の書面に署名捺印完了

同月19
株式会社批評空間の設立登記申請

同月23
同 登記完了
     
※参考文献 株式会社批評空間と批評空間投資事業有限責任組合の設立について

  

[1] http://www.riaj.or.jp/chronicle/
[2] なぜ主体的条件が必要か。著作権法が本質的に300年間ずっと停滞してきた原因の最大は理念の喪失にある。法律とは本来単なる技術でなく、あくまでも「或る理念に基づいて構成されたシステム」である。理念を喪失したため300年間停滞を続ける著作権法の現実から、逆説的に法律の正体を思い知らされる。理念を喪失したとき、法律は単なる「強者による現状肯定のイエスマン」に堕すから。
[3] ソニーの井出伸之社長曰く「大昔、隕石が恐竜を絶滅させた。インターネットは現在の産業社会に落ちた隕石だ」(2000年)
[4]民法上の組合は参加者に無限責任を負わせている。

2015年度映画大学集中講義のレジメ1:著作権法の過去と現在(2015.7.23)



著作権法とはどんな法律か?それは今どんな課題を抱えているか?

2015年7月23日

レジメ→ ワード版


1、著作権法の起源
 著作権法の未来は著作権法の起源にある。
 ゆえに、著作権法の起源の考察なしに、未来も考察できない。

小説は何処へ行くか、と問われるとき‥‥その問いは、小説は何処から来たか、という問いとほぼ同じである。衰弱した小説とは、小説は何処から来たか、というジャンルとしての自己反省を忘れた小説であり、また、混血=分裂による超ジャンル性すなわち『いかがわしさ』の自己意識を忘れた小説である。つまり、小説の未来は小説の過去にある。」(後藤明生「群像93年1月号」322頁以下)。

今、著作権法は転換期にあると言われている、言い換えればどんづまりにある。そこで、どんづまりの衰弱した著作権法とは、著作権法は何処から来たか、という自らの起源のことを忘れた著作権法のことである。つまり、著作権法の起源に関する「いかがわしさ」の自己意識を忘れた著作権法のことである。

小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。ただし、この『過去』は小説史として語られるところにあるのではない。それがわからない人たちは、小説を書き未来の小説について語れ、たんなる過去になるために。
 これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこから来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。しかし、それを普通に問えると思う人たちは、経済学者になり未来の経済について語れ、たんなる過去になるために。」(柄谷行人「批評空間93NO.9」編集後記)

そこから、我々もまた、こう言うことができる。
「著作権法がどこへ行くのかを問うには、著作権法がどこから来たかを問うべきである。著作権法の未来は、著作権法の起源にある。」


法律一般と比べてみて、著作権法という法律は、その正体が他の追随を許さぬほど群を抜いて意味不明なものであり、極めて特異な法律である。
 なぜなら、建前は、第1条の総論で「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と、著作者や実演家(アーティスト・俳優)の権利保護を立派に宣言しておきながら、
 ひとたび各論に入ると、著作者や実演家の実質的な保護にとって必要不可欠な著作物の利用に関する契約において、著作者の保護について一言も触れておらず(その意味で、弱肉強食に任せ)、それどころか反対に、「弱きを挫き、強きを助ける」強者擁護の制度(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)すら導入している有り様だから。
 また、著作権と区別してこれに隣接する権利として著作隣接権なるものがどうして認められるに至ったのか、つまり、
 一方で、本来区別されるべき合理的な理由がないにもかかわらず、実演家(アーティスト・俳優)を著作者(クリエーター)から区別して一段低い地位しか与えないことが何ゆえ正当化されるのか、
 他方で、個人ではなく法人しか念頭に置かないような放送事業者や有線放送事業者に、何ゆえ、本来個人にしかあり得ない創作性に由来する著作隣接権が付与されるに至ったのか、その明快な説明がどこにもないという有り様だから。
著作権法のこの耐え難いほどの欺瞞・偽善はどこから来るのか?

――著作権法とは、徹頭徹尾、共同体内部の法律だということ、今までいっぺんでも、共同体を越えたことがなかったこと。それは歴史的に見て明らかである。著作権法が制定されたのは或いは改定されたのは、憲法のように、アメリカ革命時やフランス革命時や第一次や第二次の世界大戦後ではなかった。日本においても、明治の旧著作権法が改定され現在の著作権法が制定されたのが、戦後の新憲法の制定時から20年以上も経過したのち(1960年)のことからも明らか。
 そこには、例えば世界大戦の痛切な反省から現憲法に織り込まれた憲法前文や9条のような、共同体を越える普遍的な人権原理は盛り込まれていない。あくまでも、共同体内部の法律に相応しく、共同体内部の秩序を維持していくために必要な掟でしかない。
 著作権法に即して言えば、コンテンツ(作品)の大量生産(複製)を可能にしたテクノロジー(印刷術・レコードや映画技術・放送)を用いた著作権ビジネスの経済秩序を維持するためのシステムとしての法律にほかならない。それゆえ、著作権法とは、あくまでも著作権ビジネスの主人である産業資本家が自分たちの望む経済秩序を、著作権ビジネスの下僕たち(著作者・実演家・エンドユーザ)に強制するためのものである。

 ところが「歴史の狡知」が働いたのか、その目論見はすんなり実現しなかった。というのは、本来、共同体内部の法律でしかない著作権法は、そのシステムを表現する方法(=法律の目的の達成手段)として、目指す目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)に相応しい単純明快な手段を取ればよいのに、ライバルに文句を言わせない大義名分に思いを致すうちに、ついに、本来は下僕にすぎない者(=著作者・クリエーター)を著作権法の主人であるかのように祭り上げる、欺瞞的な紛らわしい手段を採用してしまった。
 それが次の著作権法の起源に関する歴史的な事実。ここで「下僕を主人のように扱う」欺瞞的なアイデアを採用したため(1710年アン法)、その後の、ギルド制度や封建的特権を廃止したアメリカやフランスの市民革命でも、著作権法は廃止されなかった(著作権法がもし、ギルド制度の出版業者をストレートに保護するとなっていたら、市民革命の中で廃止された筈である)。その結果、本音と建前を使い分けて生き延びた著作権法は以後「幻想と紛争と笑いの森」と言われてもしょうがない位、建前(著作者主権)と本音(企業独裁)が錯綜した欺瞞的な法律の道を歩むことになった。





A.当初の【独占状態】の大義名分
グーテンベルクの印刷術の発明以後、出版ビジネスの主役だった出版業者は、最初、自分たちの独占的な出版活動を正当化するために、国王より印刷・出版の独占を保障される出版特権という制度を活用。
        

B.【独占状態】に対する抗争の勃発
然るに、その後、こうした特権を享受する既存の出版業者に対し、これを持たない後発の出版業者たちから「何ゆえ彼らだけがこうした既得権を享受できるのか?」という異議が出され、両者の間に抗争が生ずるに至った。
        
C.【独占状態】の新たな大義名分の獲得
その結果、出版の独占を正当化する根拠として、これまでの国王から与えられる出版特権に代わって、新たなアイデアの創出を迫られた。そこで彼らが苦心の末捻り出したのが→著作者から著作権(当時は精神的所有権と言った)を譲り受けているからだという説明。

すなわち著作権制度とは、もともとコンテンツ(作品)を大量生産(複製)して一般ユーザーに提供して商売をする出版業者のために作られたもの。彼ら出版業者の独占的な経済活動を保障するために、いわば賭場荒しを取り締まる大義名分としてひねり出されたもの(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」参照)。
 今日まで、この本質は変わっていない。

2、現代の著作権法の本質とその欺瞞性
著作権法は500年前からこの起源をずっと踏襲している。確かに、この起源は近世のものであり、歴史はフランス革命などの市民革命を経て近代社会に移行したが、にもかかわらず、この点については不変だった。つまり、一貫して次の方程式の中にあった。
「著作権制度­=コンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供する産業資本家Xの独占的な経済活動Yを保障するために、それを正当化する大義名分

 この方程式のXとYの中に、当初は、近世のギルド的な業者(印刷業者)と活版印刷術による出版産業が代入されたが、市民革命のあと登場した複製技術に関する新しいテクノロジーのおかげで、Xの中にレコード会社、映画会社、テレビ局という著作権ビジネスの企業が、Yの中に音楽産業、映画産業、放送産業が次々と代入されただけで、この方程式自体は不変のままだった。

ところで、封建制度と決別し、個人の自由・人権を宣言した市民革命後も廃止されず生き延びた著作権法は、人権宣言にならって、表向きは「主役は著作者、目的は著作者個人の権利保護」というスローガンを標榜することになった[1]
しかし、著作権法は、その表向きのうつくしいスローガンとは裏腹に、現実は「主役は著作権ビジネスの企業、目的はこうした企業がスムーズに経営を実施できるための適正な産業経済秩序の維持」が本質であり、その本質がぬけぬけとのさばっており、両者の間には超え難い亀裂がある。その意味で、著作権法は、坂口安吾が指摘した「通俗作家荷風」に似ている――著作権法は「クリエーター・アーティストとは如何なるものか、クリエーター・アーティストは何を求め何を愛すか、そういう誠実な思考に身を捧げたことは一度もない。」だから、法律の中でも「最も不誠実な法律」である。そして、荷風と同様「著作権法のあらゆる条文において、この根本的な欠陥を見出すことができる。」それゆえ、著作権法とは、本来の主人公であるクリエーター・アーティストを500年にもわたって差別と支配と貧困の隷属状態に置いてきた「法律のアフガン」である、と。

、現在の日本の著作権法
 次の8章から構成。
第1章、総則。著作権法の目的の宣言(1条)と著作権法に登場する用語の定義規定などを置いている(1~9条)。
第2章、著作者の権利。権利の客体である著作物と権利の主体である著作者と権利そのものである著作権についての規定(10~78条)。
第3章、出版権。出版社に出版物の独占的権利を認めた出版権という制度についての規定(79~88条)。
第4章、著作隣接権。著作物の創作ではないけれど、それに準ずるような行為を行なう者たちの権利として著作隣接権を認め、その主体となる実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者についての規定(89~104条)。
第5章、私的録音録画補償金。デジタル方式による録音録画機器・記録媒体を用いた私的複製について認められた私的録音録画補償金制度についての規定(104の2~104の10条)。
第6章、紛争処理。著作権などに関する紛争の斡旋についての規定(105~111条)。
第7章、権利侵害。著作権などの権利侵害者に対して差止や損害賠償などの民事上の救済を求めることができ、それについての規定(112~118条)。
第8章、罰則。著作権などの権利侵害者に対して罰則が課せられる規定(119~124条)。


 次に、実質的に見て、著作権法とは、次のカラクリを持っている。
 著作権法の起源で示した通り、著作権法の目的とそれを具体化する手段(=法律構成)とが完全に分裂した法律であること。つまり、本来、著作権ビジネスの主人である産業資本家の目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)をストレートに法律構成としても表現すれば単純明快だったのに、それをやらず、著作物の生産段階において、現実には単なる下僕にすぎない著作者をあたかも著作権法の主人公のように(=著作物を創作した著作者に権利が発生するという)祭り上げてしまうという法律構成を採用してしまった。

 そこで、この転倒した関係を元に戻すため、企業の側からの反動的な改正が実施。
つまり現実には単なる下僕にすぎない著作者を法律上もあくまでも下僕にとどまらせるために、著作物の流通段階(=著作物を利用する契約のレベル)において、恥も外聞も顧みず、産業資本家に徹底的に有利な制度を登場させた。これが、単に「契約自由の原則」という名の弱肉強食の採用にとどまらず、一般私法では凡そあり得ないような映画製作者の権利(29条)やワンチャンス主義(91条参照)といった強者の強欲と評されてもしょうがない強きを助け、弱きを挫く制度が導入された。

 さらに、その転倒した不利な関係を少しでも挽回するために、なお著作物の生産段階においても、産業資本家たちは、自らが著作権の主人公として登場する必要性を痛感した。しかし時既に遅しで、主人公の著作者の座はクリエーターによってふさがれており(これに対する産業資本家たちの抵抗が「法人著作」の導入)、かといって、著作者概念を「法人著作」以上に拡大してここに潜り込むわけにも行かず、そこで、苦肉の策として、弱腰の実演家の尻馬に乗っかって、著作隣接権者の一員として、準主役の地位を無理矢理獲得することで一矢報いた。それが既に出版権(79~88条)という独占権を認められていた出版界と映画製作者の権利(29条)といった強欲の権利を持っていた映画界以外の業界である音楽のレコード会社(レコード製作者[96~97条の3]。)、放送の放送局(放送事業者[98~100条]・有線放送事業者[100条の2~100条の4])たちが行なった強者の逆襲である。

 次に、著作権法が「共同体の掟」であることを端的に示すものとして、著作権法がこれまでもっぱら取締まりの対象にしてきたのが、共同体の秩序を踏みにじるアウトローたち、つまり不正コピーの製造販売を業とする海賊版業者たちだった。それは、著作権法が、不正コピーを取り締まるための複製権(21条。著作権法では、著作権に含まれる権利の種類の中で最初に登場する)を中心にして構成されてきたこと、また著作権等の侵害に対して民事罰のみならず刑事罰(119~124条)まで規定してあることからして明らか。

 このように見ていくと、ひとつの謎がまた明らかにされる。それは、これまで、著作権法では、著作物の「創作性」の中身について、ちっとも議論が深まらなかった原因だ――決して、法律家の「創作性」に対する無知・無関心に由来するものではない。それはもともと、複製権中心主義と刑事罰のシステムにおいては、「創作性」とは最低それがありさえすれば足りるのであって、それ以上「創作性」の中身など本質的にはどうでもいいこと。だからそれは、著作権法の本質に由来する制度的なこと。


4、日本著作権法の特色
2つある。
1つは、契約に関する条文がメチャクチャ貧しい。
2世紀前の、契約自由の原則[2]に委ねたフランス革命直後の近代私法のままのように見える。
それは、
(1)、他の国内法との対比:著作権法は一般私法(民法)の特別法だが、同じく特別法である、労働法、借地借家法、消費者契約法などの消費者保護の法と対比してみたとき、経済的強者の契約自由を制限し、もって経済的弱者の自由を確保しようとした近代私法の発展(それが後者)の姿とその差は歴然としている。
(2)、他国の著作権法との対比:ドイツの著作者契約法(2002年「著作者および実演家の契約的地位の強化に関する法律」)に比べてみても、その差は甚だしい。

もう1つは、契約自由の原則によってすでに十分有利な立場にいる経済的強者の地位をさらに強化する制度を導入(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)。
つまり、弱肉強食の世界(=契約自由の原則)をさらに進め、「弱きを挫き、強きを助ける」強者保護法になっている。これは、経済的弱者の保護の見地から契約自由の原則を修正してきた近代私法の発展と鮮やかに逆行。


5、著作権の契約に対する法的規制
 では、日本では、ドイツの著作者契約法のように、著作者・実演家を守るための、契約に対する法的規制はないのか。
   ↓
 ある。しかも、著作権法関連法ではないため、著作者がろくに知らない間に作られた。
 それが2004年4月に施行された改正下請法。
 つまり、著作権法の立法担当する文化庁が著作者の契約面での保護に少しも手をつけないので、経済産業省と公正取引委員会の関係者が危機感を抱き、対応したもの。

 その結果、名称は「著作者契約法」ではなく、「下請法」となってしまった(カッコ悪いと言う著作者がいるようだが、むしろこのほうが実態をリアルに反映している)。
下請法の詳細→公正取引委員会のHP ex. http://goo.gl/3CLJ3G

6、日本の著作権契約の実情
 著作者・実演家の権利が骨抜きにされ、彼らに信じがたいほど、不当に重い負担が課せられている。
 例: 著作者人格権の不行使の約束
    制作した著作物・実演から発生した全損害の補償の約束
 
7、著作権法の中の市民(生産者・労働者)VS
企業(著作権ビジネスの覇者)
顕著な対立として、次の3つがある。
(1)、法人著作(15条)
(2)、映画製作者の権利(29条)
(3)、ワンチャンス主義[3](91条2項)




[1] 1787年アメリカ憲法は1条8節8項に著作者について定めた。
[2] 契約を当事者の自治(自由)に委ね、国家が干渉してはならないという近代私法の大原則。
[3] 実演家はいったん映画に出演する許諾をしたら、以後、その映画で録音・録画された実演の二次利用について権利を主張できなくなること。

2015年6月12日金曜日

佐藤雅美 VS テレビマンユニオン 著作権侵害事件(二審)控訴理由書(2015.4.28)

以下は、代理人が著作権に関わって以来約30年間の総決算の積りで書いた書面。->PDF版

  ******************************

平成27年(ネ)第10042号 
控訴人  佐藤 雅美
被控訴人 株式会社 テレビマンユニオン
控訴理由書
2015年4月28日
知的財産高等裁判所第2部ニ係  御中
控訴人訴訟代理人弁護士 柳 原  敏 夫  

頭書事件の控訴理由は以下の通りである。
なお、表記について、本書面では便宜上、控訴人を原告、被控訴人を被告と、及び原告小説1~3を総称する場合は単に原告小説、被告番組1~3を総称する時には被告番組とした。
目 次
第1、本裁判の交通整理                        
1、本裁判の最大の主張と争点                     
2、肩透かしの門前払いの一審判決                 
3、一審判決の最大争点は法律論ではなく事実論である       
第2、事実論(芸術論と作品の構造分析論)1――ストーリー論――
1、問題の所在――創作的表現と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある――
2、ストーリーであるために必要な要件とは何か            
3、原告小説への当てはめ                                                   
4、一審判決と従前の判例との齟齬・矛盾                                    
5、ストーリーの創作性                       
6、ストーリーの類似性                        
7、小括                              
第3、事実論(芸術論と作品の構造分析論)2――人物設定論――
1、問題の所在――ストーリーと同じ誤りに陥った一審判決――      
2、人物設定の重要性と著作権法上の位置づけ                
3、人物設定でも創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある                                
4、「著作権法で保護する人物設定」であるために必要な要件とは何か  
5、原告小説への当てはめ                      
6、人物設定の創作性                         
7、人物設定の類似性                         
8、小括                                
9、その他1(エピソードの翻案)                   
10、その他2(部分複製)――二重基準への疑問――          
第4、法律論
翻案権侵害                            
2、複製権侵害(部分複製)                      
3、著作者人格権侵害                         
4、補足――翻案権侵害の判断基準に関する橋本論文の光と影について――  
第5、結語                              



第1、本裁判の交通整理
1、 本裁判の最大の主張と争点
本裁判における原告の最大の主張は原告小説のシークエンス[1]の翻案権侵害、つまり「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説のシークエンスの創作的なストーリー』を無断で使用し、翻案権侵害した」である。そして、この主張で最大の争点となったのは、本件の「創作的なストーリー」とは何かであり、一審の審理の殆どがこれに費やされた。
審理の中で、被告は、ストーリーをこれを構成する個々の出来事に分解して、個々の出来事ごとに先行資料があるとか「思想、アイデアにすぎない」と主張したのに対し、原告は、ストーリーをバラバラに分解する被告の主張は物語の展開を創り出すストーリーというものの本質的特徴を見失った誤謬の議論であり、ストーリーの本質的特徴に即してストーリーの創作性を考察すれば、それは、ストーリーを構成する個々の出来事の選択とその配列の仕方(例えば、4つの出来事ⓐ、ⓑ、ⓒ、ⓓから構成されるストーリーなら、その創作性は様々な出来事の中からⓐⓑⓒⓓの4つの出来事を選択し、なおかつこの4つの出来事をⓐⓑⓒⓓの順番に並べたこと)にある主張し、原告小説に即して具体的に主張・立証してきた(原告準備書面(4)及び一審判決別紙主張対照表の【創作性】参照)

2、肩透かしの門前払いの一審判決
ところが、一審判決は、一審の審理の殆どを費やしたこの肝心要の土俵(「ストーリーの創作性」という争点)に上がることをせず、思ってもみなかった形で、土俵にあがる手前のところでいきなり決着をつけてしまった。すなわち一審判決は、原告小説1のシークエンス1の翻案の判決理由にその特色が端的に表明されているのでこれを引用すると、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」は、一方で、一連の出来事の展開《創作意図、アイデア若しくは歴史上の事実についての見解であり》、他方で、ストーリーを構成する個々の出来事は《歴史上の事実にすぎず》《歴史上の事実についての見解であって》(別紙主張対照表1.1頁)、いずれも「思想、アイデア、事実にすぎない」ものだから、結局、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」は《著作権法で保護されるべき表現には当たらない。》(同上)それゆえ、それ以上「原告小説のシークエンスのストーリー」の創作性の有無及びその内容の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入るまでもなく、原告主張を斥けた。「ストーリーの創作性」という土俵の上ならともかく、よもや、土俵の外で、こんな大前提の門前で原告主張が斥けられたことは原告にとって、これ以上の肩透かしで門前払いの判決はない。よって、本書面のメインテーマは、この門前払いがいかに不当であるかを明らかにし、よって、審理を当初の通り本来の土俵の上に乗せ、その土俵の上で正しい裁きを引き出すことである。

3、一審判決の最大争点は法律論ではなく事実論である
 原告は、一審で、翻案権侵害の判断基準という法律論について争ったことは一度もない。なぜなら、「既存の著作物の表現形式上の本質的特徴を直接感得できるか否か」[2]といった判断基準は民法90条の「公序良俗」、同1条の「権利の濫用」、同709条の「過失」などと同様、あくまでも一般条項または不特定概念に過ぎず、それだけでは、具体的紛争の具体的な判断を導く基準には到底なり得ず、これ自体を議論しても生産的でないからである。それを端的に物語る事例が江差追分事件の翻案権侵害をめぐる司法判断である。東京地裁・同高裁の知的財産専門部と最高裁が、いずれもほぼ同様に上記の判断基準を採用したにもかかわらず、その結論は正反対だった。ここから、一般条項または不特定概念について改めて我々が肝に銘ずべきことは、民法90条の「公序良俗」の意義をめぐって、かつて我妻栄が指摘した以下の言葉である。
《第90条は、抽象的規定であることがその生命である。しかし、そのためには第90条の適用が裁判官の個人的思想による区々な結果となってはならない》(民法講義Ⅰ.271頁終わりから2行目以下)
そこから、我々が向かうべきなのは、我妻栄の上記文章の続きである、以下の指摘である(江差追分事件の最高裁判決について同旨の見解を述べたものとして島並良[3]。大家重夫[4])。
《ここにおいて、一面、従来の判例及びこれに対する学者及び社会一般の批評を仔細に観察し、他面、活路を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、もって、具体的な決定を誤らないように努めなければならない。》(同271~272頁)
 二審において、我々がまず観察すべき「当代の社会思想と社会制度」とは、何をもってストーリーというか、それを原告小説に当てはめた時、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」がストーリーといえるか否かである。なぜなら、もともとストーリーは著作権法で保護される表現形式の1つであり[5]、一審で原告は、著作権法で保護される表現形式のストーリーという意味で「原告小説のシークエンスのストーリー」を主張したのに対し、一審判決はそのストーリーを構成する個々の出来事や一連の出来事の展開は「思想、アイデア、事実にすぎない」から、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」は「著作権法で保護されるべき表現には当たらない」とストーリー性を否定したからである。その意味で、これは法律論ではない。事実論である。しかもその事実論とは芸術論とこれを踏まえた作品の構造分析論にほかならない。
 以上を踏まえ、次に、本件に即して事実論(芸術論と作品の構造分析論)を吟味検討する。

第2、事実論(芸術論と作品の構造分析論)
1、問題の所在――創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある――
 一般に、原告小説のような言語著作物の中から或る要素を取り出して、これが「思想、アイデア、事実にすぎない」と指摘することは常に可能である。なぜなら、そもそもどんな言語著作物にも、その中にストーリーに関することで質的に異なる次元において、
①.主題・テーマ(どんな思想、アイデアに基づいてストーリーを構想したのか)
②.ストーリー・構成
③.具体的表現(ストーリーを構成する個々の出来事を具体的に記述した表現)
④.事実自体(③の具体的表現の中で使われる事実自体)。
の要素がいずれも備わっているからであり(野田高悟「シナリオ構造論」構成の題材・テーマ(主題)・ストーリー(筋)105~125頁参照)、その中から思想、アイデア、事実に属する要素を取り出すだけのことだからである。言い換えれば、そもそもどんな言語著作物でも、その中から、思想、アイデア、事実に属する要素を取り出すことも可能であれば、ストーリー・構成に属する要素を取り出すことも可能である。これに対し、一部には、言語著作物の全部或いはその一部について、ひとたび思想、アイデア、事実に属する要素が見出せたら、その思想、アイデア、事実で占められたその著作物には、あたかもクリミア半島の領土を2つの国のどちらが占領するかのように、もはやそれ以外のストーリー・構成に属する要素は存在し得ないか、又はその思想・アイデア・事実に関するストーリー・構成は存在できない、と考える者がいる。しかしそれは芸術論(作品の構造分析論)を理解しないが故に陥る誤りである[6]。なぜなら、ここでは言語著作物の同一次元ではなく、異なる次元で片や思想、アイデア、事実に属する要素が、片やストーリー・構成に属する要素が見出せるかどうかを論じているだけのことなのだからである。
つまり、言語著作物の中でストーリー・構成と思想、アイデア、事実は併存するのであり、両者の存在は食うか食われるかのごとき排他的なものでなく、両立する関係に立つ。それはちょうど、平井宜雄の画期的な業績として知られる、因果関係に対して事実論と法律論という異なる次元において、それぞれ事実的因果関係と法的因果関係を見出したのと似ている[7]
 そこで、問題は、本裁判において、原告が原告小説の中から、ストーリーに属する要素を正しく取り出して、「原告小説のシークエンスのストーリー」として主張しているか否かを正面から吟味検討することである。
 ところが一審判決は、正面からこれを吟味することを怠った。そして、裏口から、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」の表現は「思想、アイデア、事実にすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア、事実」がそこを占領した以上、もはや「ストーリー」が占領する余地はないと言わんばかりに、ストーリー性を否定して原告主張を斥けた。
しかし、上述の通り、およそ言語著作物の中から「思想、アイデア、事実」に属する要素を取り出すことは常に可能である。その意味で、「原告小説のシークエンス」の中からストーリーに関する「思想、アイデア、事実」に属する要素を取り出すことも常に可能である。しかし、だからといって、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」が「ストーリー」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」がストーリーの要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。
 それを実行してみせたのが江差追分事件の最高裁平成13年6月28日判決である。最高裁判決は、一方で、両作品の同一性を有する部分は、《一般的知見に属し、江差町の紹介としてありふれた事実であって、表現それ自体ではない部分において同一性が認められるにすぎない。また‥‥これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはなく、‥‥表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず》と両作品で同一性が認められる部分とは「認識(思想、アイデア)、事実にすぎない」と判断したが、しかしそれで終わりにせず、他方で《本件ナレーションの運び方は、本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが、その記述順序自体は独創的なものとはいい難く、表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。》と、原告作品(本件プロローグ)の「運び方」「記述順序」つまりストーリー・構成を取り出して、これについての吟味検討を怠らなかった。しかし一審判決はこの「ストーリー・構成の取り出し」を怠った。怠ったまま、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」のストーリー性を否定し、そこからいきなり翻案ではないという結論を導いた。この一点だけでも一審判決は失当であり、取消しを免れない。
 そこで我々も、江差追分事件の最高裁判決が実行した上記の後半部分(「ストーリー・構成の取り出し」とその吟味検討)にならって、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、同様の吟味検討を実行する。

2、ストーリーであるために必要な要件とは何か
 ストーリーとは、一般的に「小説・脚本・映画などの筋または筋書」(広辞苑)と言われ、筋とは「話の骨組み・しくみ」(広辞苑)である。「話の骨組み」とは、登場人物に関する個々の行動や出来事(以下、これを出来事という)を複数組み合わせて、ひとつの流れとして捉えることとされる(江差追分事件の上告審に提出された近代日本文学専攻の小森陽一東大教授の意見書(甲29。以下、小森意見書という)頁を参照)。この「複数の出来事の組み合わせ」方の代表的なものが「序・破・急」(能楽)「始め・中・終わり」(アリストテレスの詩学)、「起承転結」(漢詩)である。
 そして、一般に、「複数の出来事の組み合わせ」がストーリーであるためには、個々の出来事に主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)、因果関係(Why)の5つの要素(以下、5つのWと略称)が備わっていることが必要とされる(以上、小森意見書5頁参照)。
小津安二郎の数々の名作の脚本を手がけた野田高梧氏が書いた我が国の代表的なシナリオ解説書である『シナリオ構造論』も以下の通り、同様の見解を述べる[8]
《新聞の報道記事が含まなければならない条件として五つのWがあるという話を聞いたことがある。
Who(誰が)――人物
When(いつ)――時
Where(何処で)――場所
What(何を)――事件
Why(なぜ) ――原因
 この五つの条件のうちどの一つが欠けてもいけないというのである。一つの主題を中軸としてそこに筋(ストーリー)が構成される場合にも、またこれと同じことが云われる。 
  大体、映画の筋のみに限らず、叙事詩、戯曲、小説などすべて物語の形を以て語られる説話形式のものは、次のような原型の上に成り立つものだと云われている。
  誰が又は何が――(主体)……性格
  何を、いかに――(事件)……行為
  いつ、何処で――(背景)……環境
  この「性格」「行為」「環境」という三つの条件が整わない限り、いかなる小さな物語も、またいかなる規模の雄大な物語も、決して成り立つものではないというのである。たとえば「昔々或るところに」というのは「環境」であり、「お爺さんとお婆さんが」というのが「性格」である。更に「洗濯に行く」とか「芝刈りに行く」という「行為」のなかには「盥を持って」とか「籠を背負って」とか或いは「歩いて」とか「走って」とかいう「いかにして」が省かれているもので、そういう些細な挿話のなかにさえ如上の三つの要素が含まれていることがわかろう。
  ところで、それとは逆に、ではそういうふうに「性格」と「行為」と「環境」という三つの要素が具わればそこに必ず物語が生まれ得るものかと云えば、それは必ずしもそうとばかりは限らない。勿論、この三つの要素は物語が成立するための必須の条件ではあるものの、それが一連の纏まった筋(ストーリー)の形を備えるためには、更にもう一つの重要な条件として、そこに語られる出来事の一つ一つの間に何らかの有機的な連絡がなければならないのである。》(甲17の3。119頁8行目以下)

3、原告小説への当てはめ
 そこで、以上の「ストーリー」を、原告小説の各シークエンスごとに当てはめるとどうなるか。以下に詳述する通り、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はストーリーの要件を満たすものであることが分る。
(1)、原告小説1
①.シークエンス1
ア、一般論
 或る出来事が簡潔に記述された場合、例えば「王が死んだ」としか記述されないときでも、そこに明示されなくても前後の文脈(コンテキスト)から、When(いつ)、Where(何処で)、Why(なぜ)がおのずと分る時には、それは5つのWという要素を備えた表現である。
イ、本件
これと同じように、訴状8~39頁の各表に記述された原告小説の各シークエンスを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表の【ストーリー】参照)は、以下の通り、これらはいずれも5つのWを備えた表現であり、従ってこれがストーリーの要件を満たすものであることが明らかである。
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
田沼意次(以下、田沼という)
When(いつ)
明和7年秋~明和8年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
1年4万両の倹約で、5年間に20万両を捻出しようと考えた
Why(なぜ) 
将軍家治の日光社参を実現するため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
明和4年初め~同年11月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
弟分の水野忠友を表の役人である勝手掛若年寄に推挙し
Why(なぜ) 
水野忠友を通じて20万両捻出を実現させるするため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
5年の倹約が満期になり、20万両を捻出した
Why(なぜ) 
将軍家治の日光社参を実現するため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説1のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
将軍家治
When(いつ)
明和9年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
田沼を老中に昇進
Why(なぜ) 
田沼の日光社参実現に向けての骨折りを賞するため

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
「田安家は幕府予算を食いつぶす存在だ」と考えた
Why(なぜ) 
田安家の年の賄い料が倹約の1年分になるから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
安永3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
田安家の取り潰しを狙う
Why(なぜ) 
幕府の財源をうるおすため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
松平定信
When(いつ)
安永3年~
Where(何処で)
田安邸→八丁堀の白河松平家の江戸藩邸→白河
What(何を)
田沼を激しく憎悪した
Why(なぜ) 
将軍になれる可能性があったのに白河松平家に養子に出されたから

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
田沼邸
What(何を)
租税徴収権の限界を認識していた
Why(なぜ) 
常に幕府財政のことを考えていたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
新御用金令を発令
Why(なぜ) 
全国民から税を徴収するため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
江戸と大坂
What(何を)
全国民から税を徴収
Why(なぜ) 
幕府の新たな財源を確保するため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説1のシークエンス3の出来事ⓓ
Who(誰が)
田沼
When(いつ)
天明6年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
諸大名の担保流れの土地を没収
Why(なぜ) 
諸大名から実質的に領土を略奪するため

(2)、原告小説2
①.シークエンス1
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
徳川斉昭(以下、斉昭という)を「評判と大きく違った、誰とでも見境なく争う」人物として設定
Why(なぜ) 
斉昭の当時の言動から
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
堀田正睦(以下、堀田という)を実務能力に長けた人物として設定
Why(なぜ) 
当時の堀田の言動から
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
阿部正弘(以下、阿部という)
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田を老中首座に迎える
Why(なぜ) 
老中を補充すると、老中経験者の堀田はおのずと首座になるから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田に「何分にもよろしく」と挨拶
Why(なぜ) 
礼を尽くすため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
安政2年10月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田をお飾り(=看板)として利用
Why(なぜ) 
あくまでも自分が実権を握るため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政2年前後
Where(何処で)
おもに自邸
What(何を)
「清国の二の舞を回避しなければ」と考える
Why(なぜ) 
とりわけイギリスに脅威を感じていたため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
阿部を鎖国体制維持の頑固な保守主義者(=攘夷鎖国派)として人物設定し、鎖国派の阿部と開国派の堀田を対比させる
Why(なぜ) 
主に「幕府外国関係文書」から読み取れる

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
海防掛勘定奉行勘定吟味役(トップが阿部)
When(いつ)
安政2~4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
西欧との交易に反対
Why(なぜ) 
彼らもまた鎖国派だったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政3年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
阿部に「海防の御役に就かせてほしい」と言う
Why(なぜ) 
海外問題に危機感を抱いていたから
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
ハリスを傍若無人、喧嘩腰の人物として設定
Why(なぜ) 
「幕末外国関係文書」の対話書から読み取れる
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事ⓓ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政3~4年
Where(何処で)
おもに江戸城
What(何を)
ハリスを江戸に呼び寄せようと画策
Why(なぜ) 
ハリスとの通商条約の締結を強引にすすめるため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定にハリスの出府許可を求める
Why(なぜ) 
重要なことはすべて将軍の許可が必要だったから

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
斉昭の暴言に、諸大名への根回しが吹き飛んだと憂慮
Why(なぜ) 
斉昭の発言によりハリスとの条約締結が難しくなったと考えたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
詔勅を取りにいくことを思いつく
Why(なぜ) 
斉昭を抑えつけるため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年1月
Where(何処で)
自邸
What(何を)
詔勅が簡単に手に入ると見込む
Why(なぜ) 
外国(とりわけイギリス)の脅威を強調すれば同意すると思った
出来事ⓓ
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事ⓓ
Who(誰が)
原告小説2の著作者(佐藤雅美)
When(いつ)
原告小説2の執筆時
Where(何処で)
原告小説2の執筆場所(主に自宅)
What(何を)
孝明天皇を過激な攘夷主義者で政治に敏感な人物として設定
Why(なぜ) 
「幕末外国関係文書」などから読み取れる
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年
Where(何処で)
禁裏 
What(何を)
孝明天皇に政治介入の野心を抱かせた
Why(なぜ) 
幕府(堀田)が孝明天皇に許可を求めたため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
孝明天皇
When(いつ)
安政5年3月
Where(何処で)
禁裏 
What(何を)
差し戻し不許可の回答
Why(なぜ) 
幕府に対する発言力を高め、かつ誇示するため
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸への帰路
What(何を)
同席からの手紙に将軍家定の暖かい言葉があり感激
Why(なぜ) 
将軍家定はたぶん怒っているだろうと思っていたから
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田をねぎらう
Why(なぜ) 
性癖が温和だから
出来事
5つのW
原告小説2のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田の松平越前守慶永の将軍補佐の申請を拒否
Why(なぜ) 
将軍の座を追われかねないと懸念したから

(3)、原告小説3
①.シークエンス1
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
島津重豪(以下、重豪という)
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
金主、銀主に利払いの停止を決断
Why(なぜ) 
借金がかさみ、利払いに苦しんでいたから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
人材不足に悩む
Why(なぜ) 
調所笑左衛門(以下調所という)という人材が側にいるのに気がつかなかったため、及び多くの人材を粛清していたため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓒ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
薩摩藩大坂蔵屋敷
What(何を)
金方物奉行樋口に、利払い停止通告を命ず
Why(なぜ) 
そうするしか藩が生き延びる術はないと思ったから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事ⓓ
Who(誰が)
銀主
When(いつ)
文化6年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
追加融資をストップ
Why(なぜ) 
借金踏み倒しに対抗するため
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス1の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文化11年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
「われ敗たり!」と首をたれた
Why(なぜ) 
借金の踏み倒し作戦が失敗したから

②.シークエンス2
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
高輪藩邸
What(何を)
調所に琉球産物品目の拡大を老中水野に働きかけよと命じる
Why(なぜ) 
財政難打開の一環として
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓑ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
向島の土方の屋敷
What(何を)
水野家の元家老の土方に、琉球産物品目の拡大を働きかける
Why(なぜ) 
土方は水野家の懐刀ゆえ、「将を射んとすれば馬を射でよ」で
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓒ
Who(誰が)
土方
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
向島の土方の屋敷
What(何を)
調所に、見返りに「将軍家斉の父の官位昇進」を持ち出す
Why(なぜ) 
薩摩藩は京(とくに近衛家)にコネがあったから
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事ⓓ
Who(誰が)
将軍家斉の父(一橋治済)
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
准大臣に任じられる
Why(なぜ) 
薩摩藩の働きかけが効を奏したかと
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス2の出来事
Who(誰が)
幕府(老中水野)
When(いつ)
文政8年
Where(何処で)
水野邸
What(何を)
琉球産物10品目の拡大を許可
Why(なぜ) 
将軍家斉の父の准大臣就任の見返りとして

③.シークエンス3
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
再度、利払いの停止を決める
Why(なぜ) 
それしか財政再建の道はないと思ったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
「つなぎ資金の確保」に悩み、担当を調所に命じる
Why(なぜ) 
つなぎ資金がないと前回と同様、失敗するから
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス3の出来事ⓒ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
文政10年
Where(何処で)
大坂
What(何を)
出雲屋孫兵衛(以下、孫兵衛という)と出会い、つなぎ資金を確保
Why(なぜ) 
孫兵衛にも薩摩藩を利用しようという魂胆があったから

④.シークエンス4
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス4の出来事
Who(誰が)
調所と孫兵衛
When(いつ)
文政11年
Where(何処で)
薩摩藩
What(何を)
再建策の1つとして、第二会社を設立
Why(なぜ) 
第二会社が事業を引き継ぐため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス4の出来事ⓑ
Who(誰が)
調所と孫兵衛
When(いつ)
文政11年
Where(何処で)
薩摩藩
What(何を)
薩摩藩を整理会社にする
Why(なぜ) 
整理会社に借金を凍結するため

⑤.シークエンス5
出来事
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事
Who(誰が)
島津斉興(以下、斉興という)
When(いつ)
弘化3年
Where(何処で)
芝の薩摩藩本邸
What(何を)
せがれの島津斉彬(以下、斉彬という)に家督をゆずりたくないと考える
Why(なぜ) 
斉彬は、せっかく貯めた金を目新しいことに湯水のごとく使いそうだから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓑ
Who(誰が)
斉彬
When(いつ)
弘化3年
Where(何処で)
老中阿部正弘(以下、阿部という)の屋敷
What(何を)
阿部に薩摩の密貿易情報を流す
Why(なぜ) 
調所を失脚させ、父斉興を隠居に追い込むため
出来事ⓒ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓒ
Who(誰が)
阿部
When(いつ)
嘉永元年
Where(何処で)
阿部の屋敷
What(何を)
調所を相手に、薩摩の密貿易を追及
Why(なぜ) 
調所を失脚させ、父斉興を隠居に追い込むため
出来事ⓓ
5つのW
原告小説3のシークエンス5の出来事ⓓ
Who(誰が)
調所
When(いつ)
嘉永元年
Where(何処で)
目黒の橋和屋
What(何を)
自ら命を絶つ
Why(なぜ) 
累を斉興に及ばせないため

(4) 、小括
 以上の通り、原告が主張する「原告小説の各シークエンスを構成する各出来事」は、いずれも5つのWを備えた表現であるから、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はストーリーの要件を満たすものである。

4、一審判決と従前の判例との齟齬・矛盾
(1)、一審判決の特異性
これに対し、一審判決は、ストーリーを構成する個々の出来事が5つのWを備えた表現であるにもかかわらず、これを「思想、アイデア、事実にすぎない」としてストーリー性を否定し、それ以上、ストーリーの創作性の有無の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、直ちに翻案権侵害を否定した。これは、従来の、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の判決の理由付け(理論構成)と甚だしい乖離をもたらし、弥縫不可能なまでの齟齬・矛盾を生む結果となった。なぜなら、従来、この種の事件の判例は、以下に詳述するとおり、ストーリー・構成の要素となる個々の出来事が5つのWを備えた表現であればいずれもこれをストーリー・構成であると肯定し、その上で、当該ストーリー・構成の創作性の有無を問い、さらに「創作的なストーリー・構成」が両作品で類似するか否かを問い、翻案権侵害の成否を判断してきたからである。

(2)、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の従前の判決の理論構成
①.江差追分事件の最高裁平成13年6月28日判決
本件ナレーションの運び方は、本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが、その記述順序自体は独創的なものとはいい難く、表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。》(アンダーラインは原告代理人による。以下も同様)
アンダーラインの「運び方」「骨格を成す事項の記述順序」とはストーリー又は構成と実質的には同じ意味である。上記判決は、原告作品の本件プロローグ部分の「骨格を成す事項の記述順序」が著作権法が保護する表現形式であることを前提にした上で、当該表現形式には創作性が認められないとして、翻案権侵害を否定したものである。決して、被告作品の本件ナレーションの「運び方」も原告作品の本件プロローグ部分の「骨格を成す事項の記述順序」もそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

②.ザ・心臓事件の東京地裁平成2年5月23日判決
《2 次に、原告シナリオと被告シナリオの内容を比較してみるに、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第一二号証、成立に争いのない甲第一三号証によれば、次の事実が認められる。
(1)両シナリオは、全問正解をした人に、希望するあらゆる賞品を叶えるというテレビのクイズ番組に出場し、全問正解をした主婦(主人公)が、その賞品として心臓移植手術のための心臓を希望し、テレビの取材を条件としたテレビ放送局の資金協力によって、アメリカに行き、同国の病院において、原告シナリオにおいては主人公の息子、被告シナリオにおいてはその夫に心臓移植手術を受けさせることになること、アメリカにおいて適当な心臓提供者が現れず、右息子ないし夫が末期症状的な心臓発作に見舞われるという危機的状況の中で、医師団の説得もあって、主人公がバブーンの心臓の移植手術を息子ないし夫に受けさせることを決意するに至り、その心臓移植手術が行われることという基本的なストーリーにおいて共通している。‥‥
仮に前2認定の原告シナリオの基本的な枠組みに著作物性が認められ、しかも、被告シナリオが基本的な枠組みにおいて原告シナリオと共通であるとしても、それは、原告の許諾に基づくものというべきところ、被告シナリオは、前2認定のとおり、基本的な枠組みにおいて原告シナリオと類似しているけれども、サブテーマ、登場人物のキャラクター、ストーリー展開等において、原告シナリオと異なりそれ自体独自性を有するのであるから、被告シナリオと右類似している部分については、少なくとも原告の許諾の範囲内において執筆されたものであり、また、独自性を有する部分については、被告シナリオとは別個独立に執筆されたものであって、その翻案には当たらないものと認めるのが相当である。》
上記判決は、2(1)で述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的なストーリー」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリーに著作物性(創作性)が認められると仮定して侵害の成否を判断している。決して、両作品の「基本的なストーリー」や「基本的な枠組み」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

③.妻たちはガラスの靴を脱ぐ事件の一審・二審判決
()東京地裁平成5年8月30日判決
《1 右二に認定の事実によれば、原告著作物の基本的なストーリーは、「建設会社に勤務する主人公章子の夫がサウジアラビアへ二年間の単身赴任を命じられる。章子は、夫と同行したいと願い、夫と議論するが、会社の方針によって許されないまま、夫は赴任する。
章子は希望を実現しようと夫の会社と直談判するが、会社側は、治安の悪さを理由に章子を説得しようとする。章子はサウジアラビアに社員を派遣している石油会社や商事会社を訪ね歩き、会社が同行を許さない理由とする事情は真実でないことや、企業の海外単身赴任の実情を知るとともに、社員用アパートを提供できるかも知れないという企業まで見つけた。章子は、自力でサウジアラビアへ赴こうとするが、回教国である同国へは、女性の単身での入国ビザが得られないという障害にぶつかる。しかし、書類上の操作で入国が不可能ではないことを知る。章子が夫の後を追って行きそうだと知った会社は、単身赴任の慣行を維持しようとして、夫に帰国命令を下し、章子は別れてから六ケ月半後に夫を取り戻す。しかし、章子と夫との間には亀裂が生じ、章子が就職したことが破局の直接的なきっかけとなる。章子は、次第に仕事と家庭の両立が困難な状況になり、家事の分担を巡って夫婦間の溝は深まり、離婚するに至る。その後、章子は、章子の新しい生き方を尊重する男性と再婚する。」というものである。
2 右四認定の事実によれば、本件テレビドラマの基本的なストーリーは、「建設会社に勤務する主人公章子の夫がサウジアラビアへ二年間の単身赴任を命じられる。章子は、夫と同行したいと願い、夫と議論するが、会社の方針によって許されないままに夫は赴任する。章子は希望を実現しようと、サウジアラビアに社員を派遣している石油会社や商事会社を訪ね歩き、企業の海外単身赴任の実情を知るとともに、社員用アパートを提供してもよいという企業まで見つけた上、夫の会社と直談判するが、会社側は、赴任者のチームワークが乱れることを理由に章子の願いを拒絶する。章子は自力でサウジアラビアへ赴こうとするが、回教国である同国へは、女性の単身での入国ビザが得られないという障害にぶつかる。しかし、書類上の操作で入国が不可能ではないことを知る。章子が夫の後を追うおそれがあると知った会社は、夫に帰国命令を下す。現地の上司のとりなしで、章子を説得するため一時帰国した夫は、隣人の妻の不倫相手の刃傷沙汰に巻き込まれて負傷し、入院する。章子と夫との間に溝ができかけるが、章子は夫の真意を知り、よい妻になろうと決意し、夫の単身赴任先に同行しようと大騒ぎしたことを夫に謝り、章子と和解した夫は、再度単身赴任し、章子は日本で職業につく。」というものである。
3 右1及び2の事実によれば、原告著作物と本件テレビドラマは、主人公の夫が帰国するまでの前半の基本的ストーリーが極めて類似していることは明らかである。》
()、東京高裁平成8年4月16日判決
《本件テレビドラマは、前半の基本的ストーリーやその細かいストーリーが原告著作物と類似し、また具体的表現も共通する部分が存するものであり、後半の基本的ストーリー等において前記のような相違点があるにもかかわらず、原告著作物を読んだことのある一般人が本件テレビドラマを視聴すれば、本件テレビドラマは、原告著作物をテレビドラマ化したもので、テレビドラマ化にあたり、夫の帰国以後のストーリーを変えたものと容易に認識できる程度に、本件テレビドラマにおいては、原告著作物における前記の特徴的・個性的な内容表現が失われることなく再現されているものと認められるから、本件テレビドラマは原告著作物の翻案であると認めるのが相当である。》
上記の一審・二審判決はいずれも、1及び2で述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的なストーリー」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリーに著作物性(創作性)が認められることを暗黙の前提にして両者の類似性(同一性)を判断している。決して、両作品の「基本的なストーリーをそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

④.春の波濤事件の一審・二審・上告審判決
()、名古屋地裁平成6729日判決
《3 翻案権侵害の成否について
(一) 著作物についてその翻案権の侵害があるとするためには、問題となっている作品が、右著作物と外面的表現形式すなわち文章、文体、用字、用語等を異にするものの、その内面的表現形式すなわち作品の筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、人物の出し入れ、その人物の個性の持たせ方など、文章を構成する上での内的な要素(基本となる筋・仕組み・主たる構成)を同じくするものであり、かつ、右作品が、右著作物に依拠して制作されたものであることが必要である。‥‥
原告作品と本件ドラマとでは、前示のとおり、分量、対象とする年代、叙述の対象、登場人物、描写の方法、取り上げるエピソード等の内容、貞奴の描写、他の主要人物の描写のいずれの点においても大きな相違があり、両作品を全体として比べると、基本的な筋、仕組み、構成のいずれの点においても同一とは言えないから、両作品は、内面形式の同一性を欠くものと言うべきである。
 なお、本件ドラマ中には、原告作品と部分的に基本的な筋が同一であると見られる箇所が存在する(例えば、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等)が、同一と見られる箇所は、いずれも歴史上の事実であって(後記四2(三)の判示参照)、原告の創作に係るものとは言えないから、原告作品と本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
 したがって、本件ドラマの制作は、原告の翻案権を侵害するものとは言えない。》
()、名古屋高裁平成9年5月15日判決
《当裁判所も、控訴人作品の性格、内容それ自体については、基本的には原判決説示のように説明するのが相当であると判断するものである》
()、最高裁平成10年9月10日判決
《上告人の上告理由について所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。》
上記の一審・二審・上告審判決はいずれも、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等の表現に対し、これを(両作品で同一であると認めた)「基本的な筋」の一部と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該「基本的な筋」創作性が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「基本的な筋」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

⑤.コルチャック先生事件の大阪地裁平成13年8月28日判決
《両者に共通する1935年以降の基本的な筋を見ると、①ナチスドイツが隆盛になる中、コルチャックは、ユダヤ人であったために、それまで担当していたラジオ番組を中止され、また自らが設立したポーランド人孤児のホームを追われ、ユダヤ人孤児のホームの運営のみを行うようになった、②その後、ポーランドに侵攻したナチスドイツ軍により、ユダヤ人特別居住区のワルシャワ・ゲットーが作られ、コルチャックとそのホームの子供たちはゲットーに強制移住させられた、③ゲットーでの生活は苛酷なものであったが、コルチャックは、子供たちの生活のために、食糧・寄付集めに奔走しつつも、ホームではハヌカの祭りを祝い、劇を上演するなどした、④しかし、ナチスドイツはゲットーのユダヤ人をトレブリンカ絶滅収容所に移送することを開始し、コルチャックとその子供たちにも移送命令が下りた、⑤コルチャックが子供たちと共に移送用の貨車に乗り込もうとしたところ、
関係者の努力で特赦の知らせが届いたが、コルチャックは、自分だけの特赦を受け入れず、子供たちと共に貨車に乗り込んでトレブリンカへ旅立った、というものであり、このような基本的な筋は、両者に共通している。‥‥
しかし、コルチャックの生涯については、原告著作が平成2年12月に発刊される以前から、外国においては多数の文献が公表され、映画も製作されている‥‥それらによれば、前記の基本的な筋は史実であって、原告著作の創作によるものではないと認められる。》
上記判決は、ここに①から⑤まで述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「基本的な筋」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該創作性が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「基本的な筋」を思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない著作物性(創作性)が認められると仮定して侵害の成否を判断している。決して、両作品の「基本的な筋をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を否定したものではない。

⑥.漫画『彼女の告白』映画化上映事件東京地裁平成25年11月22日判決
《ア 証拠(甲1)によれば、本件漫画は、全18頁(「週間甲」3~20頁)であり、その登場人物、設定場面、ストーリー及び台詞は、別紙認定対比表の本件漫画欄記載のとおりである。
本件漫画のストーリー展開は、「①父母が3年ぶりに東京から帰省する息子(達彦)の到着を待っていたところ、息子ではなく、(達彦を装った)若い女性(南裕子)が現れた。②父母は、その女性から性転換を告白されたため、その女性を息子と誤解し、さらに、父は、その結婚の報告に対して男同士の結婚であることを理由に反対した。しかし、③父母は、これを契機として、父母の秘密を告白することを決め、その女性に対し、父が女性であって父母が女性同士であったことを告白し、さらに、父が息子を出産したことを話した。ところが、④到着した息子は、父母とその女性が和んでいるから芝居がばれていると思い、父母に対し、その女性が自分の彼女であり、自分がニューハーフになった役での芝居を頼んだことを話した。そして、息子は、父母とその女性がどんな話をしていたのかを聞いたが、誰も答えなかった。」というものである。
 他方、証拠(甲2)によれば、本件映画は、約14分33秒(本編前後のクレジットを含む。)であり、その登場人物、設定場面、ストーリー及び台詞は、別紙認定対比表の本件映画欄記載のとおりである。
 本件映画のストーリー展開は、上記の本件漫画のストーリー展開と同じである(ただし、「南裕子」は、本件漫画では「達彦」の彼女であるのに対し、本件映画では「達彦」の婚約者であるという違いはある。)。
イ 以上のとおり、本件映画は、登場人物やストーリー展開が本件漫画と同じであり、台詞も本件漫画と多くの部分が同じである。
 確かに、本件映画と本件漫画は、その設定場面において、本件映画が日本家屋の縁側、本件漫画が主として日本家屋の座敷であるという違いや、本件映画には、本件漫画にはない性転換手術についての会話、父が裕子の顔に杯をかける場面、母が父に対して秘密を話すことを促す場面があるなどの違いがあり、それらの点において、本件漫画と異なる創作性が認められる。しかしながら、本件漫画は、息子(達彦)の彼女(婚約者)である裕子が、達彦を装って性転換を告白したために、達彦の父母が裕子を達彦であると誤解し、達彦(実は裕子)に対し、自分達夫婦が実はともに女性であること及び達彦は父(実は女性)が出産したことを告白するという奇抜なストーリー展開とそれを支える台詞や登場人物の感情の動きについての描写に、その表現上の本質的な特徴があるといえるのであって、その表現上の本質的特徴部分において、本件映画は本件漫画と同一である。》
 上記判決は、ここに①から④まで述べられた両作品の出来事の組み合わせに対し、これを「ストーリー展開」と認定し、すなわち著作権法が保護する表現形式であると認めた上で、当該ストーリー展開に「表現上の本質的な特徴」が認められるかどうかを吟味して、翻案権侵害の成否を判断した。決して、当該「ストーリー展開」をそれ自身が「思想、アイデア、事実にすぎない」として、翻案権侵害を判断したものではない。

(3)、小括
 以上から、従来、ストーリー・構成の無断利用を争った翻案権侵害事件の判例は、ストーリー・構成の要素となる個々の出来事が5つのWを備えた表現であればいずれもこれを著作権法で保護する表現形式であると肯定し、その上で、当該ストーリー・構成の創作性の有無を問い、さらに「創作的なストーリー・構成」が両作品で同一であるか否かを問い、翻案権侵害の成否を判断してきたことが明らかであり、それゆえ、ストーリーを構成する個々の出来事が5つのWを備えた表現であるにもかかわらず、これを「思想、アイデア、事実にすぎない」としてストーリー性を否定し、そこからただちに翻案権侵害ではないという結論を導いた一審判決が際立って特異なものであることも明らかである。

5、ストーリーの創作性
 そこで、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、どのような創作性が認められるか。本来、これがシークエンスの翻案の最大の争点である。
 第1、2で前述した通り、一審で、原告は、ストーリーをバラバラに分解する被告の主張は物語の展開を創り出すストーリーというものの本質的特徴を見失った誤謬の議論であり、ストーリーの本質的特徴に即してストーリーの創作性を考察すれば、それは、ストーリーを構成する個々の出来事の選択とその配列の仕方(例えば、4つの出来事ⓐ、ⓑ、ⓒ、ⓓから構成されるストーリーなら、その創作性は様々な出来事の中からⓐⓑⓒⓓの4つの出来事を選択し、なおかつこの4つの出来事をⓐⓑⓒⓓの順番に並べたこと)にある主張し、原告準備書面()で具体的に主張・立証してきた(一審判決別紙主張対照表の【創作性】参照)ので、ここではくり返さない。

6、ストーリーの類似性
原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」と原告主張の「被告番組のシークエンスのストーリー」とが同一であることについては被告も争わない(一審判決別紙主張対照表【ストーリー】参照)。従って、同一性が認められる両作品のストーリーについて、上記5で述べた通り、原告の創作性が認められる以上、両作品のシークエンスの「創作的なストーリー」同士の類似性が認められるのは当然である。

7、小括
 以上の通り、原告主張の「原告小説のシークエンスのストーリー」について、一審判決の門前払いの誤りをただし、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」という土俵の上で正しい判断をすれば、原告小説のいずれのシークエンスについても翻案権侵害が認められる。

第3、事実論(芸術論と作品の構造分析論)2――人物設定論――
1、問題の所在――ストーリーと同じ誤りに陥った一審判決――
本件の重要な争点の1つが原告小説2の登場人物について人物設定の翻案権侵害、つまり「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説2の6人の登場人物についての人物設定』を無断で使用し、翻案権侵害したか否か」である。これについて、一審判決は、原告が主張する「登場人物についての人物設定」は、別紙主張対照表2記載の人物設定の翻案の番号1に端的に示されたように《著者の創作意図若しくはアイデアにすぎない》(同対照表2.7頁)、すなわちいずれも「思想、アイデアにすぎない」から著作権法で保護されるべき表現には当たらないとして、それ以上「人物設定」の創作性の有無の判断にも、また創作的な人物設定の類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、原告主張を斥けた。
 しかし、以下に詳述する通り、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等の執筆・制作において、登場人物の人物設定はストーリーと並び、創作の要となる「著作物のエッセンス」である。そして、人物設定もストーリーと同様、その創作的な表現形式の領域と思想・アイデアの領域とは併存し、両立する関係にある。
 従って、ここでの問題は、ストーリーと同様、原告が原告小説2の中から、著作権法で保護する人物設定に属する要素を正しく取り出して、「登場人物についての人物設定」として主張しているか否かを正面から吟味検討することである。
 しかし、ここでも一審判決は、ストーリーと同様、正面からこれを吟味することを怠った。そして、裏口から、原告主張の「登場人物についての人物設定」の表現は「思想、アイデアにすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア」がそこを占領した以上、もはや「著作権法で保護する人物設定」が占領する余地はないと言わんばかりに、これは「著作権法で保護する人物設定」ではないとして原告主張を斥けた。
しかし、一般に言語著作物の中から人物設定に関する著者の「思想、アイデア」に属する要素を取り出すことは常に可能である。しかし、だからといって、原告主張の「登場人物についての人物設定」の表現が「著作権法で保護する人物設定」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「登場人物についての人物設定」が「著作権法で保護する人物設定」の要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。

2、人物設定の重要性と著作権法上の位置づけ
 人物設定とは、作品の登場人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成することをいう(甲19の2。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」52頁参照)。
 人物設定が、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等の執筆・制作において、ストーリーと並んで作品の創作性の中身・良し悪しを決定する最も基本的にして最も重要な要素であることは、古来、芸術家なら片時も忘れることのない作法である。それは芸術の創作論において、常にくり返し論じられてきた(小説作法の代表的名著とされるEM・フォースター「小説とは何か」の「人物」(甲18の2)。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」の「その九 登場人物をきちんと設定せよ」(甲19の2)。今般提出のシナリオ作法の代表的名著とされる「シナリオ構造論」の「性格の問題」(甲17の4)と大木英吉ほか「シナリオハンドブック」の「性格描写」(甲30の1)参照)。
 従って、以下の通り、「著作権法逐条講義(三訂新版)」に「著作物のエッセンスを指す内面的表現形式」の代表的例示として「ストーリー」が掲げられているのであれば、小説、ドラマ、映画、戯曲、漫画等においては、「ストーリー」と並んで「人物設定」もまた《著作物のエッセンス》を指す内面的表現形式[9]である(さしあたり、以下、「著作権法で保護する人物設定」という)。
《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行「著作権法逐条講義(三訂新版)」163頁下から3行目以下)

3、人物設定でも創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にある
第2、1で、ストーリーに関する創作的な表現形式と思想・アイデア・事実は併存し、両立する関係にあることを前述した。これは「人物設定」にもそのまま当てはまる。
すなわち、一般に、原告小説のような言語著作物の中から或る要素を取り出して、これが人物設定に関する著作者の「思想、アイデアすぎない」と指摘することは常に可能である。なぜなら、そもそもどんな言語著作物でも、人物設定に関して、その中には質的に異なる次元において、
①.主題(どんな思想、アイデアに基づいて人物設定を構想したのか)
②.人物設定(人物に性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等を与え人物像を形成すること)
③.具体的表現(人物設定を具体的に記述した表現)
の要素がいずれも備わっているからであり(野田高悟「シナリオ構造論」102~125頁参照)、言語著作物の中から人物設定に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すだけのことだからである。言い換えれば、そもそもどんな言語著作物でも、その中から、「人物設定」に関する著作者の思想、アイデアに属する要素を取り出すことも可能であれば、「著作権法で保護する人物設定」に属する要素を取り出すことも可能である。つまり、言語著作物の中で、「著作権法で保護する人物設定」と人物設定に関する著作者の「思想、アイデア」は併存するのであり、両者の存在は排他的なものでなく、両立する関係に立つ。
 そこで問題は、本裁判において、原告が原告小説2の中から「著作権法で保護する人物設定」に属する要素を正しく取り出して、「原告小説2の登場人物の人物設定」として主張しているかである。
 ところが一審判決は、ここでも正面からこれを吟味することを怠った。そして、ここでも裏口から、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現は「思想、アイデアにすぎない」と判断した。そして、あたかも「思想、アイデア」がそこを占領した以上、もはや「著作権法で保護する人物設定」が占領する余地はないと言わんばかりに、これは「著作権法で保護する人物設定」ではないとして原告主張を斥けた。
しかし、上述の通り、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現の中から著作者の「思想、アイデア」に属する要素を取り出すことは常に可能である。しかし、だからといって、その表現が「著作権法で保護する人物設定」であることを否定する根拠にはならない。そのためには、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」の表現が「著作権法で保護する人物設定」の要件を備えているかどうかを正面から問う必要がある。
 それを正面から論じ、結論を下したのが漫画「タイガーマスク」無断続編作成事件の東京地裁平成6年7月1日決定である。尤も、漫画における人物設定は絵として表現されるため、キャラクターと呼ばれており、キャラクターの翻案権侵害事件として争われた(次頁の新聞は、上記決定を報じた日経新聞72日付記事である)。
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債務者は、タイガーマスク」の続編「タイガー・マスクTHE STAR」はストーリーもキャラクターも「タイガーマスク」と異なるから、自由に制作できると主張した。これに対し、債権者は、たとえ主人公のキャラクターの具体的な表現は変えてあっても、依然、内面的表現形式に相当する当該キャラクターの特徴部分を真似た漫画を無断で制作することは翻案権侵害が成立すると主張した。ここでも、債務者は、外面的表現形式に相当する具体的な表現レベルでは両作品のキャラクターは一見してちがうこと、及び債権者の主張する「当該キャラクターの特徴部分」は、著作権法が保護しない「思想、アイデアにすぎない」と反論した。裁判所は、債権者の言い分を認め、差止の決定を出した。
 この裁判の中で、債権者は、以下に引用する通り、漫画著作物の中には次の3つの領域があり、債権者が主張しているのは、そのうち内面的表現形式に相当するキャラクターであると主張した(甲31.債権者準備書面(1))。

2、キャラクター概念の分類・整理の必要
さらに注意する必要があるのは、一口に「キャラクター」といっても、実際上、この言葉は、一方で、人物像という極めて抽象的なレベルから、他方で、人物の絵そのものという具体的なレベルにまで幅広く使われている。従って、この多様性を含んだキャラクター概念はそのレベルに応じてこれを分類・整理し、その類型に応じて著作権法上の保護を考える必要があり、これを単に「キャラクター」と一口で括って著作権法上の保護を一律に考えるのは適切ではない。 
そして、債権者が本件において著作権法上の保護を求めているのは、キャラクター一般の意味においてではなく、あくまでも或る特定のレベルにおけるキャラクターについてである。
 二、では、漫画著作物を空間的に把握した場合に見い出される、キャラクターの翻案行為的な利用における内面形式とは何か。
それは、一方で単なる人物像などという抽象的なレベルの意味ではなく、他方で人物の絵そのものという具体的なレベルの意味でもなく、いわば、その中間に位置するようなレベルにおいて見い出される具体的な「容貌、姿態、性格、役割」のことである。
ここで言わんとすることを、翻案行為的な利用の典型例である「ストーリーないし筋」との対比の中で今少し敷衍すると、次の通りである。
1、すなわち、小説・映画・ドラマなどにおいては、作品の三要素として
(1)、テーマ(主題)
(2)、ストーリー(筋)
(3)、題材(素材)
が挙げられ(疎甲第二四号証参照)、これらは或る抽象的なテーマがストーリーという形で作品の骨格・特徴を示すものとして(つまり、一段階具象化されて)描かれ、ストーリーはさらに題材を通じて作品のディテール・具体的内容を示すものとして(つまり、もう一段階具象化されて)描き込まれるという関係、つまり右から左へ向かって抽象から具象へと発展する関係にある。
2、そして、この三つの要素は著作権法上の観点から評価すると、次のように分類されている。
    《著作権法上の評価》      《小説・映画・ドラマ》
    アイデア(表現内容)      (1)、テーマ(主題)
    内面形式(表現形式)      (2)、ストーリー(筋)
    外面形式(表現形式)      (3)、題材(素材)
つまり、小説・映画・ドラマにおけるストーリー(筋)とは、アイデアという抽象的な領域におけるテーマ(主題)と、外面形式という具象的な領域における題材(素材)との中間に位置し、著作権法上、内面形式という評価を与えられているものである。このようなストーリー(筋)におけるデリケートな位置、このデリケートな位置こそキャラクター概念の分類・整理においても最も留意しなければならない点である。
 3、すなわち、キャラクターという言葉は一般に、単なる人物像という抽象的なレベルで使うことも、また人物の絵そのものという具体的なレベルで使うこともある。と同様に、このキャラクターを、ストーリー(筋)のときと同じく、単なる人物像などという抽象的なレベルでもなく、かつまた人物の絵そのものという具体的なレベルでもなく、いわば、その中間において見るときに初めて見い出されるようなものとして使うこともある。これが、小説・映画・ドラマにおけるストーリー(筋)と対応する、具体的な「容貌、姿態、性格、役割」のことである。
つまり、小説・映画・ドラマにおける作品の三つの要素は、漫画著作物を空間的に把握した場合に見い出されるキャラクターの三つの用法と比較検討すると、次のような対応関係が認められるのである。
     《小説・映画・ドラマ》            《漫画著作物》
       (1)、テーマ(主題)     ←→     抽象的な人物像
       (2)、ストーリー(筋)   ←→     具体的な「容貌、姿態、性格、役割」
       (3)、題材(素材)       ←→    人物の絵そのもの

4、そうだとすると、漫画著作物を空間的に把握したとき得られるこの三つのキャラクターの用法は著作権法上、次のように評価が与えられることになる。
    《著作権法上の評価》    《小説・映画・ドラマ》      《漫画著作物》
     アイデア(表現内容) →  (1)、テーマ(主題) ←→  (1)、抽象的な人物像
     内面形式(表現形式) →  (2)、ストーリー(筋)←→ (2)、具体的な「容貌、
                                                          姿態、性格、役割」
     外面形式(表現形式) →  (3)、題材(素材) ←→  (3)、人物の絵そのもの

すなわち、漫画著作物には、著作物の内面形式に該当するものとして、ストーリー(筋)と同次元のもの、つまり、抽象的な人物像でもなく、かつ人物の絵そのものでもないような中間のレベルとして具体的な「容貌、姿態、性格、役割」というものが認められるのである。
本件において問われているのは、まさしくこの具体的な「容貌、姿態、性格、役割」の利用のことであり、それ以上でもそれ以下でもない(従って、以下、これを「内面形式としてのキャラクター」という)。
5、その意味で、「ポパイ」事件の東京高裁平成四年五月一四日判決が「附帯控訴人主張に係るポパイのキャラクターなるものは、ポパイの個々具体的な漫画を超えたいわばポパイ像にすぎず、特定の観念(アイデア)それ自体である」として著作権法上の保護を与えなかったのは、まさしく右の「アイデアとしてのキャラクター」のレベルのことを言及したからにほかならず、従って、本件とは直接何の関係もない。》(甲31平成5年9月3日債権者準備書面(1)6~11頁)。

4、「著作権法で保護する人物設定」であるために必要な要件とは何か
 以上から明らかなように、著作権法で保護する「人物設定」であるためには、登場人物に、具体的な「性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等」を与えることである。

5、原告小説への当てはめ
 そこで、以上の「著作権法で保護する人物設定を、原告小説2の登場人物の「人物設定」に当てはめるとどうなるか。
訴状24~28頁の通り、原告は、原告が主張する「原告小説2の6人の登場人物の人物設定」は以下の通りであり、いずれも登場人物に具体的な「性格、思想、道徳、経済観念、経歴、境遇、容姿等」を付与したものであって、「著作権法で保護する人物設定」に該当することが明らかである。
①.徳川斉昭
「世間一般から抱かれている印象とおよそ異なる、感情の抑制のきかない、思いついたことを口から出まかせにしゃべって一歩も譲らない、誰とでも見境なく争う、性格の狷介な」人物として設定。
②.堀田正睦
事務処理能力のある者を幕閣に迎えたい。阿部はごく自然にそう思った。」と阿部に思わせるほど、「実務能力に長けた」人物として設定。
③.阿部正弘
「国体の護持、攘夷鎖国を外交の基本理念に据えた政治家」「通商条約の締結拒否を鎖国体制堅持の第二の防波堤にしようと考え」た、「鎖国体制の堅持を侵すべからざる不動の外交基本理念に据えた、かたくなな体制派、頑固な保守主義者」という人物として設定。
④.ハリス
いっこうに怒りをしずめず、給仕が茶を運んでくると手を振って、「そんな茶など飲めるか」と荒々しくいい、御徒目付をさしては「出て行け」とののしり、何をいっても耳を傾けようとしない」傍若無人の人物として、「目をつむっておもむろに首を振り、「いいやそうではない」といわんばかりの仕草をして見せるのがハリスの反撃の前触れで、その仕草がはじまると、井上も岡田も身を縮ませて、ハリスの破れ鐘のような怒声が頭上をとおりすぎていくのを待たねばならなかった」喧嘩腰の人物として設定。
⑤.孝明天皇
「水戸学崇拝者も顔負けの過激な攘夷主義者」であり政治に敏感な」人物として設定。
⑥.将軍家定
「(家定は)馬鹿ではなかった。常識のあるごくふつうの男で、統治、国を治めるということに関していうなら、少なくとも自分には統治能力はない、余計なことはいわずに宿老に任せておくのがいいと判断する能力はもちあわせていた」という、実際は冷静に回りの状況を読める人物として設定。

6、人物設定の創作性
 では、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」について、どのような創作性が認められるか。
 この点につき、原告準備書面()4~7頁で詳述した通りなので、ここではくり返さない(一審判決別紙主張対照表2の7~12頁【創作性】参照)

7、人物設定の類似性
一審判決別紙作品対照表2の7~8頁「3 人物設定の翻案」記載の表現を対比すれば、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」と原告主張の「被告番組2の登場人物の人物設定」が類似していることは明らかである。
類似性が認められる両作品の人物設定について、上記6で述べた通り、原告の創作性が認められる以上、両作品の「創作的な人物設定」同士の類似性が認められるのは当然である。

8、小括
 以上の通り、原告主張の「原告小説2の登場人物の人物設定」について、一審判決の門前払いの誤りをただし、「人物設定の創作性」と「人物設定の類似性」という土俵の上で正しい判断をすれば、原告小説2の6人の登場人物のいずれについても翻案権侵害が認められる。

9、その他1(エピソードの翻案)
(1)、原告小説2の「エピソードの翻案」
 一審判決がこれを否定した理由は「原告小説のシークエンスの翻案」と全く同じである。すわなち、原告が、「被告が、被告番組の制作にあたって、『原告小説2のエピソードのストーリー』を無断で使用し、翻案権侵害した」と主張したのに対し、一審判決は、《歴史上の事実についての見解か、著者の創作意図若しくはアイデアにすぎないから、著作権法で保護されるべき表現には当たらない》(別紙主張対照表2.12~13頁)としてストーリー性を否定し、それ以上、原告小説のエピソードのストーリーの創作性の有無の判断にも、また創作的なストーリーの類似性の有無の判断にも立ち入ることなく、原告主張を斥けた。
 従って、これに対しても、本書面でこれまで詳述した「原告小説のシークエンスの翻案」に関する主張がそのまま妥当する(6~32頁参照)。
 そこで、訴状28~29頁の各表に記述された原告小説2の各エピソードを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表2の12~14頁【ストーリー】参照)は、以下の通りいずれも5つのWを備えた表現であり、従っていずれもストーリーの要件を満たすものである。
①.原告小説2のエピソード1
出来事
5つのW
原告小説2のエピソード1の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定に、ハリスの出府の提案をする
Why(なぜ) 
ハリスと通商条約の締結を進めるため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のエピソード1の出来事ⓑ
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政4年
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
堀田に「そ、そうせい」と許可を出す
Why(なぜ) 
将軍家定は何事も老中の意見に従っていた

②.原告小説2のエピソード2
出来事
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定に松平越前守の将軍補佐役の許可を求める提案する
Why(なぜ) 
将軍の世継ぎとして一橋慶喜を推進するため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事ⓑ
Who(誰が)
堀田
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
将軍家定の「そ、そうせい」を期待
Why(なぜ) 
いつものとおりと思い
出来事ⓒ
5つのW
原告小説2のエピソード2の出来事ⓒ
Who(誰が)
将軍家定
When(いつ)
安政5年4月
Where(何処で)
江戸城
What(何を)
想定外の「掃部を大老に任ずる」と言う
Why(なぜ) 
将軍の座を追われかねないと懸念したから

 (2)、原告小説3の「エピソードの翻案」
 上記(1)と同様である(一審判決別紙主張対照表3.8~11頁参照)
 そこで、訴状39~40頁の各表に記述された原告小説3の各エピソードを構成する出来事(一審判決別紙主張対照表3の8~11頁【ストーリー】参照)は、以下の通りいずれも5つのWを備えた表現であり、従っていずれもストーリーの要件を満たすものである。
①.原告小説3のエピソード1
出来事
5つのW
原告小説3のエピソード1の出来事
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
天明7年
Where(何処で)
公の席
What(何を)
舅の重豪が聟家斉にひれ伏さなければならない
Why(なぜ) 
家斉が将軍となったため
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のエピソード1の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
天明7年
Where(何処で)
高輪の薩摩藩邸
What(何を)
隠居を思い立ち実行
Why(なぜ) 
公の席で家斉にひれ伏すのが面倒と考えたため

②、原告小説3のエピソード2
出来事
5つのW
原告小説3のエピソード2の出来事
Who(誰が)
調所
When(いつ)
いつも
Where(何処で)
どこでも
What(何を)
笑みをたやさない表情をしていた
Why(なぜ) 
そういう人柄であったから
出来事ⓑ
5つのW
原告小説3のエピソード2の出来事ⓑ
Who(誰が)
重豪
When(いつ)
或る日
Where(何処で)
寛政10年
What(何を)
調所に笑悦と改名を命じた
Why(なぜ) 
笑みをたやさない表情をしていたから

③.原告小説3のエピソード3
 一審判決別紙主張対照表3の10頁【ストーリー】のⓐとは登場人物に関する出来事ではないので、ストーリーという主張は撤回し、改めて、ⓐとⓑからなる構成として翻案の主張をする。

10、その他2(部分複製)――二重基準への疑問――
 被告が被告番組制作にあたって、原告小説に依拠(参照)したことを認めたことをいいことに、原告は訴状で、、被告番組に見つかった原告小説と同じ単語、同じ表現をことごとく著作権侵害として取り上げた訳ではない。あくまでも部分複製の成立要件[10]を踏まえ、原告小説のうち「まとまりのある創作的な外面形式をそのまま利用したもの」に限って、部分複製の成立を主張したものである(訴状14頁・同29~30頁・同40~42頁)。
 ところが、一審判決は、このうち、原告小説2の部分複製6と原告小説3の部分複製6についてだけ複製権侵害を認め、それ以外は《アイデアが共通であるにすぎず》《具体的表現においても‥‥ごくありふれた表現である》(別紙主張対比表1.15~16頁)として複製権侵害を認めなかった。
しかし、原告にとっては、なにゆえこの2つだけ「創作的な表現が共通」であるとして複製権侵害が肯定され、残りは「アイデア・ごくありふれた表現が共通」であるとして複製権侵害が否定されたのか、その合理的な根拠がさっぱり理解できない。そこには2つの判断基準が使い分けられたとしか思えない。
この二重基準(ダブルスタンダード)ではないかという疑いについて、今後、具体的に補充主張立証する予定である。

第4、法律論
翻案権侵害
(1)、シ-クエンスの翻案
 第2で前述した通り、原告が主張する「原告小説のシークエンスのストーリー」はいずれもストーリーの要件を満たすものであるから、これについて、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

(2)、人物設定の翻案
 第3で前述した通り、原告が主張する「原告小説2の6人の登場人物についての人物設定」はいずれも「著作権法で保護する人物設定」の要件を満たすものであるから、これについて、「人物設定の創作性」と「人物設定の類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

(3)、エピソードの翻案
第3、9で前述した通り、原告が主張する「原告小説2及び3のエピソードのストーリー」は、原告小説3のエピソード3を除き、いずれもストーリーの要件を満たすものであるから、これについて、「ストーリーの創作性」と「ストーリーの類似性」が認められる結果、いずれについても翻案権侵害が成立する。

2、複製権侵害(部分複製)
 第3、10で前述した通り、一審判決が原告主張の部分複製のうち2つの部分について複製権侵害を認めたのであれば、それ以外の部分についても同様に複製権侵害を認めてしかるべきであり、これを区別する合理的な理由がない。その詳細については、追って主張・立証する。

3、著作者人格権侵害
(1)、同一性保持権侵害
 言うまでもなく、同一性保持権の侵害とは、既存著作物の著作権者に無断であれ、許諾を得てであれ、既存著作物の表現形式を利用する場合を前提にして発生する法律問題である。その意味で、原告主張のシークエンスの翻案の全部と部分複製の殆どを認めなかった一審判決が同一性保持権侵害を否定したのは首尾一貫している。
 従って、二審で、一審判決が取り消され、シークエンスの翻案などの無断使用が認められる場合には同一性保持権の侵害もまた認められるのが首尾一貫しており、それだけのことである。

(2)、氏名表示権侵害
 氏名表示権侵害も、(1)と同様、既存著作物の表現形式の利用を前提にしている。従って、二審で、シークエンスの翻案などの無断使用が認められる場合には氏名表示権侵害もまた認められることになる。

4、補足――翻案権侵害の判断基準に関する橋本論文の光と影について――
(1)、表現形式の創作性の判断の仕方
第2、1の脚注6でも引用したが、小泉直樹上智大学教授が、江差追分事件の最高裁判決等の「二次的著作物について」講演した中で、《翻案権侵害とは何か、ということについて関心を寄せられるにあたって画期的な役割を果たした論考として、橋本英史「著作権(複製権、翻案権)侵害の判断について()()」(判例時報1595号20頁・1596号11頁(1997))》を紹介している(コピライト2002年6月号18頁。以下、橋本論文という)。
橋本論文は、著作物の創作性の有無を判断するにあたって、次の通り注意を喚起する。
《原告の著作物の表現形式と被告の作品の表現形式と対比して共通するものが、著作権として保護される創作的な表現形式でなく、アイデア等そのものにすぎないのかを検討することが必要になることがある。この際に、共通する表現形式から、アイデア等そのものを抽出する(差し引く)と残った表現形式には創作性は認められないかどうかを確認するという検討方法をとる場合には、前述したように、微視的に、例えば個々の用語、一文など細切れに分離してこの評価を加えていくと、結局各々のすべてがアイデア等(ないしアイデア等とありふれた表現)に属してしまい、その表現形式上の創作性がすべて否定され、正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、》(() 判例時報1596号15頁)
 この指摘は正しい。なぜなら、第2、1で前述した通り、一審判決がそうだったように、「思想、アイデア」と「表現形式」があたかも同じ次元に食うか食われるかのごとく排他的に存在するものであるかのようにみなして、ひとたび「思想、アイデア」か見出されたら、いわばその占領によって、もはやその思想、アイデアに関する「表現形式」は存在する余地はないと考える見解(さしあたり今「差し引き説」と呼ぶ)ことは、芸術論(作品の構造分析論)に照らして誤りであることは明らかだからである。
 ただし、橋本論文はそのあと、「表現形式の創作性」の判断のやり方について誤謬に陥っている。それは次のくだりである。
《‥‥正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、ここでも総合的に創作性を評価することが重要となる(原告代理人注:これをさしあたり「総合説」と呼ぶ)。
‥‥端的に、著作物は、思想、感情等が創作的に表現されて具象化したものであり、思想等はその表現と一体となって創作的な表現形式を構成しているものであるということもできよう。
 従って、原告の著作物の創作的な表現形式と被告の作品の表現形式とを対比する場合に、思想、感情等についても対比して考察する必要があるし、著作物の特性に応じ、当該著作物の表現形式の創作的価値を理解するために、これと一体をなす思想、感情等の独創性等その個性(創作性)の程度も評価することが重要となることがある。》(15頁2段)
 言うまでもなく、著作物の表現形式を制作するに際してその源泉となった著作者の思想、感情抜きにはその表現形式の創作性について理解することは不可能である。その意味で、著作物の表現形式の創作性の有無を判断にあたって、その表現形式の源泉となった思想、感情について考察するのは当然である。しかし、仮に思想家は別としても、少なくとも芸術家にあっては、著作者がいかに高邁、独創的な「思想、感情」を抱こうとも、それが原稿用紙やキャンバスに表現された著作物の表現形式が独創的なものであることを保障するものでは全くなく、その反対に、「平和が大切」「命が宝」といった、いかにもありふれた月並みの「思想、感情」を抱いた場合でも、そこから「ゲルニカ」「夢千代日記」といった独創的な表現が作り出されることは可能である。すなわち、原告準備書面()で引用した以下のとおり、芸術の創作において、著作者の思想、感情の独創性とその表現形式の創作性とは直接的には何の関係もなく、本来、両者は別個独立の問題である。
〔 文豪ドストエフスキーは、自己の小説「白痴」について次のように語っている。
《この小説の根本の観念は、一人の真に善良な人間を描く事にある。世界中にこんな難しい仕事はない》(小林秀雄「「白痴」についてⅠ」78頁) 
 つまり、創作上の課題とはいかにして「一人の真に善良な人間を描くか」という表現方法の点にあって、どのような「一人の真に善良な人間」を表現するかという表現内容ではない。
 文芸批評家の柄谷行人も、夏目漱石の作家としての創作性についてこう言っている。
《現実の生きた人間を造型しようとしたとき、漱石ははじめて小説家としての苦しみを経験しなければならなかった。彼の「思想」が変わったわけではない。現実認識が変わったわけではない。四十歳に近い年で書きはじめた男に、いかなる人性上の変化をも期待できるわけがないのだ。漱石の深化はもっぱら表現者としてのそれであり、その意味で驚嘆すべきスピードで成熟を とげたのである。むろん表現上の成熟は思想上の成熟である(原告代理人注:但し、その逆は真とは限らない)。だが、その「思想」は書くという作業にお いて成熟したのであり、また作家の成熟はそれ以外にはあり得ない。‥‥(中略)‥‥
 漱石には何を書くかということは簡単な問題だった。ある意味では彼の小説のモチーフは少しも変わっていないし、作家としての漱石の心を悩ましたのは、誰でも例外のないように、いかに書くかということだったはずである。》(「漱石の構造」345頁。348頁。アンダーラインは原告代理人)
同じく、文芸批評家の小林秀雄も、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の表現について、こう言っている。
《成る程、「善悪の彼岸」を説く、ラスコーリニコフの犯罪哲学は、シェストフの言う様に、全く 独創的であり、ニイチェの発見に先立つ三十五年のものかも知れぬが、作者がラスコーリニコフの実験によってみせてくれる、主人公の正確な理論と、理論の結果である低脳児の様な行為との対照の妙にくらべれば言うに足りないのである。
  重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういう具合に生きるかという事だ。作者が主人公を通じて彼の哲学を扱う手つきだ、その驚嘆すべき狡猾だ。》(「「罪と罰」についてⅠ」43頁)〕(原告準備書面(3)5頁5行目~6頁10行目)
 以上の通り、創作性に注目するとは、芸術論においても著作権法においても、ひとしく表現形式のそれに注目することである。ところが、橋本論文は、思想、感情(表現内容)の独創性に注目して、表現形式の創作性の判断にあたっても、思想、感情の独創性も表現形式のそれと同程度に取り入れて、両者を総合して判断する立場を取る。しかし、これは上記のとおり、芸術論として誤っているのみならず、法律論としても、翻案権と衝突する表現の自由に対する不当な制約をもたらすという意味で不当である[11]と言わざるを得ない。
 尤も、これに対しては橋本論文から次の批判がある。
《著作権侵害の判断において、原告の創作性が認められる表現形式から、その思想、感情、事 実等や公有の文化的所産は保護の対象とならないことを理由として、これらを分離して評価の対象外に置いて、残余の表現形式とを対比するという手法は、原告の創作的な表現形式を空虚なものとして評価するものであって正当ではなく、右のとおり、これらを総合して評価すべきである。》(15頁3段)
 しかし、差し引き説が間違いだとしても、そこに残っているのは総合説しかないと考えるのは早計である。まだ第三の見解が可能だからである。それが次の「分離説」である。
①.創作性の判断対象は専ら著作物の表現形式である。
②.その創作性の判断にあたって、「著作者の思想、感情(表現内容)」「著作物に記述された事実自体」を判断資料として斟酌、参考にすることはできる。ただし、それはあくまでも表現形式の意義を正確に理解するための参考資料にとどまる。

(2)、内面的表現形式の創作性の判断の仕方
 橋本論文は表現形式と表現内容を総合して創作性を判断する立場という意味で、「総合説」のいわば最右翼である。これに対し、同じ「総合説」でも内面的表現形式と外面的表現形式を総合して、翻案の場合の創作性を判断するという立場がある(さしあたり今、橋本論文を総合説A、後者を総合説Bと呼ぶ)。
 総合説Bが登場した背景には、もともと著作物の本質論から、著作物の表現形式を内面的表現形式と外面的表現形式に区分し、後者が変更されても、前者が同一である限り翻案権侵害を免れないという伝統的な見解(加戸守行「著作権法逐条講義」など)に対し、内面的表現形式と外面的表現形式を区別するのは困難という批判として登場したものである。
 しかし、たとえ総合説Bであっても、表現内容と表現形式の区別は依然困難であることには変わりなく、要するに、芸術等の著作物を対象にして法秩序の規律を設ける以上、これら表現内容と内面的表現形式と外面的表現形式という区別はどのみち避けて通れることができない宿命的なアポリア(難問)なのである。
 しかも、表現内容と内面的表現形式と外面的表現形式との区別が困難に思える最大の原因は一般的に言えば、我妻栄が指摘した(4~5頁で前述した)以下の通りであり、本件に即して言えば法曹関係者が芸術に十分通じていないことにある。
《ここにおいて、一面、従来の判例及びこれに対する学者及び社会一般の批評を仔細に観察し、他面、活路を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、もって、具体的な決定を誤らないように努めなければならない。》(民法講義Ⅰ.271~272頁)
すなわち、芸術作品等の著作物の構造に対する有益な観察(芸術論・作品の構造分析論)が未だ著しく不十分なため、裁判の中で確信をもって作品の構造を理解し、作品の分析を実行することができないため、残された手段として、直感的な判断に頼らざるを得ず、その結果、この直感的な判断を正当化する理論として総合説が登場せざるを得ない。
その結果、総合説B(総合説Aも同様だが)によれば、いかなる場合に翻案権侵害になり、いかなる場合にならないのか、その判断基準は曖昧模糊としたままで、これでは法律《の適用が裁判官の個人的思想による区々な結果となってはならない》(民法講義Ⅰ.271頁終わりから2行目以下)と我妻栄が危惧した事態を招くおそれが大きい。
 その上、総合説Bはそもそも翻案権が著作権法に登場した起源(立法趣旨)を忘れた見解である。複製権中心主義でやってきた著作権法に、新たに翻案権が登場した理由は、一言でいって、複製権侵害の隠れ蓑(脱法行為)を封じ込めるためであった。すなわち、
《翻案という美名のもとに他人の著作物が利用されることが横行し、その防止は国際的に大きな課題であった。他人の著作物をそのまま複製するということは、実際には犯罪になるので、正面から行なわれはしなかったが、これをもぐって、原著作物の全部または一部を改作して、すなわち翻案して利用されることを防がねばならないとされた。》(中川善之助ほか「改訂著作権」128頁)
 この翻案権の起源(立法趣旨)に立ち返れば、外面的表現形式が無断使用されたのであれば、それだけでストレートに複製権侵害を問えばよく、それをわざわざ内面的表現形式との総合判断をして翻案権侵害が成立するかどうかなどと問う必要は全くない。
他方で、ストーリーや人物設定などの内面的表現形式が無断使用されたのであれば、それだけでストレートに翻案権侵害を問えばよく、それをわざわざ外面的表現形式との総合判断をして翻案権侵害が成立するかどうかなどと問う必要も全くない。なぜなら、翻案権が登場したのはもともと外面的表現形式の無断使用である複製権侵害が問えない時にその脱法行為防止のためである以上、改めて、外面的表現形式を持ち出す必要なぞないからである。つまり、翻案権の起源を思い起こせば、複製権侵害と翻案権侵害とはそれぞれ己の果たす職責を明確に分担することを自覚し、それぞれ判断基準の明確化に努めるべきである。
以上をまとめ、本件のごとき芸術作品の翻案権侵害裁判のあるべき姿を標語的に言えば次のようになろう――美(芸術)のことはまず美(芸術)に聞け。それから、善(法的)の判断に進め、と。
 芸術論・作品の構造分析論の成果を踏まえて明確な基準を立てようとする分離説こそ、今後、芸術作品の翻案権侵害裁判がめざす理想の姿である。

第5、結語
 以上の通り、一審判決の誤りは明らかであり、取消しを免れない。
以 上



[1] シークエンス(節)とは、一般に、小説や映画や番組の本筋を構成する個別の挿話(まとまりを持った小話)をいう(訴状7頁。甲17の2.野田高悟「シナリオ構造論」134頁)。
[2]念のため確認しておくと、これは江差追分事件の一審・二審判決が示した基準であっても、最高裁判決の要旨に示されたものではない。すなわち最高裁判決は積極的にこの基準を示していない。
[3] 《東京地裁・同高裁の知的財産専門部と最高裁が、右のようなほぼ同一の判断枠組みを採用しながら全く正反対の結論に至ったことからも分るように、この判断枠組みの事案への当てはめは容易ではない。この困難性は、既存著作物の「本質的な」特徴を直接「感得」できるか否かという、多分に主観的な評価が翻案権侵害の成否を左右する決め手となっていること、そして、そもそも保護されるべき創作的表現とそこから除外される事実やアイデアの区分が、実は価値判断に満ちていることに起因するものと思われる。今後は前記の一般的判断枠組みを踏まえて、そこから先の具体的な判断手法を各著作物類型ごとにさらに精密化し、結論の予測可能性を高めていくことが求められよう。》(コピライト2001年12月号19頁神戸大学助教授島並良「言語著作物に関する翻案の意義」)。
[4] 「たしかに、コピライト488号19頁で島並良・助教授が指摘されるように、『保護されるべき創作的表現とそこから除外される事実やアイデアの区分が実は価値判断に満ちている』。」(大家重夫・判例評釈「テレビドキュメンタリー番組のナレーションの一部が、江差追分に関するノンフィクション「北の波濤に唄う」の翻案権侵害等とした1・2審判決を覆し、翻案でないとした事例」)
[5] 例えば《原著作物において表現された著作物の内面形式(と私たちは呼んでおりますが、例えばストーリー性とか、基本的モチーフとか、構成とかいう著作物のエッセンスを指す内面的表現形式)》(加戸守行著「著作権法逐条講義(三訂新版)」163頁下から3行目以下)
[6] 同様の指摘をしたのが橋本英史「著作権(複製権、翻案権)侵害の判断について()」(判例時報1596号15頁《原告の著作物の表現形式と被告の作品の表現形式と対比して共通するものが、著作権として保護される創作的な表現形式でなく、アイデア等そのものにすぎないのかを検討することが必要になることがある。この際に、共通する表現形式から、アイデア等そのものを抽出する(差し引く)と残った表現形式には創作性は認められないかどうかを確認するという検討方法をとる場合には、前述したように、微視的に、例えば個々の用語、一文など細切れに分離してこの評価を加えていくと、結局各々のすべてがアイデア等(ないしアイデア等とありふれた表現)に属してしまい、その表現形式上の創作性がすべて否定され、正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり、》
[7] より敷衍すれば、この問題は、カントが200年前、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(真か偽かという認識的判断)、②善(善か悪かという道徳的判断)、③美(快か不快かという美的判断)という異なる独自の3つの次元の判断(従って、それらは併存し、両立する)を持つことを明らかにし、その各々の判断について、それまでの判断のあり方を批判した(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)ことにつながる(柄谷行人「美学の効用」〔定本柄谷行人集4所収〕153~154頁。同・定本柄谷行人集5「トランスクリティーク」173~174頁参照)。
[8]ストーリーの要件について語った舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」63頁(甲19の4)も同様。
[9] とはいっても、原告は本裁判で内面的表現形式という抽象的・不特定概念にどうしてもこだわる積りはない。さしあたり、著作権法上保護される範囲に含まれる表現形式としての「人物設定」のことを指すのであって、その意味を込めて、ここでは「著作権法で保護する人物設定」と呼ぶ。
[10]「冷蔵倉庫設計図」事件大阪地裁昭和54年2月23日判決。加戸守行著「著作権逐条講義」三訂新版170~171頁参照。
[11] 同旨の見解は本書面5頁脚注4の大家重夫の判例評釈。