2015年7月31日金曜日

2015年度映画大学集中講義のレジメ1:著作権法の過去と現在(2015.7.23)



著作権法とはどんな法律か?それは今どんな課題を抱えているか?

2015年7月23日

レジメ→ ワード版


1、著作権法の起源
 著作権法の未来は著作権法の起源にある。
 ゆえに、著作権法の起源の考察なしに、未来も考察できない。

小説は何処へ行くか、と問われるとき‥‥その問いは、小説は何処から来たか、という問いとほぼ同じである。衰弱した小説とは、小説は何処から来たか、というジャンルとしての自己反省を忘れた小説であり、また、混血=分裂による超ジャンル性すなわち『いかがわしさ』の自己意識を忘れた小説である。つまり、小説の未来は小説の過去にある。」(後藤明生「群像93年1月号」322頁以下)。

今、著作権法は転換期にあると言われている、言い換えればどんづまりにある。そこで、どんづまりの衰弱した著作権法とは、著作権法は何処から来たか、という自らの起源のことを忘れた著作権法のことである。つまり、著作権法の起源に関する「いかがわしさ」の自己意識を忘れた著作権法のことである。

小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。ただし、この『過去』は小説史として語られるところにあるのではない。それがわからない人たちは、小説を書き未来の小説について語れ、たんなる過去になるために。
 これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこから来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。しかし、それを普通に問えると思う人たちは、経済学者になり未来の経済について語れ、たんなる過去になるために。」(柄谷行人「批評空間93NO.9」編集後記)

そこから、我々もまた、こう言うことができる。
「著作権法がどこへ行くのかを問うには、著作権法がどこから来たかを問うべきである。著作権法の未来は、著作権法の起源にある。」


法律一般と比べてみて、著作権法という法律は、その正体が他の追随を許さぬほど群を抜いて意味不明なものであり、極めて特異な法律である。
 なぜなら、建前は、第1条の総論で「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と、著作者や実演家(アーティスト・俳優)の権利保護を立派に宣言しておきながら、
 ひとたび各論に入ると、著作者や実演家の実質的な保護にとって必要不可欠な著作物の利用に関する契約において、著作者の保護について一言も触れておらず(その意味で、弱肉強食に任せ)、それどころか反対に、「弱きを挫き、強きを助ける」強者擁護の制度(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)すら導入している有り様だから。
 また、著作権と区別してこれに隣接する権利として著作隣接権なるものがどうして認められるに至ったのか、つまり、
 一方で、本来区別されるべき合理的な理由がないにもかかわらず、実演家(アーティスト・俳優)を著作者(クリエーター)から区別して一段低い地位しか与えないことが何ゆえ正当化されるのか、
 他方で、個人ではなく法人しか念頭に置かないような放送事業者や有線放送事業者に、何ゆえ、本来個人にしかあり得ない創作性に由来する著作隣接権が付与されるに至ったのか、その明快な説明がどこにもないという有り様だから。
著作権法のこの耐え難いほどの欺瞞・偽善はどこから来るのか?

――著作権法とは、徹頭徹尾、共同体内部の法律だということ、今までいっぺんでも、共同体を越えたことがなかったこと。それは歴史的に見て明らかである。著作権法が制定されたのは或いは改定されたのは、憲法のように、アメリカ革命時やフランス革命時や第一次や第二次の世界大戦後ではなかった。日本においても、明治の旧著作権法が改定され現在の著作権法が制定されたのが、戦後の新憲法の制定時から20年以上も経過したのち(1960年)のことからも明らか。
 そこには、例えば世界大戦の痛切な反省から現憲法に織り込まれた憲法前文や9条のような、共同体を越える普遍的な人権原理は盛り込まれていない。あくまでも、共同体内部の法律に相応しく、共同体内部の秩序を維持していくために必要な掟でしかない。
 著作権法に即して言えば、コンテンツ(作品)の大量生産(複製)を可能にしたテクノロジー(印刷術・レコードや映画技術・放送)を用いた著作権ビジネスの経済秩序を維持するためのシステムとしての法律にほかならない。それゆえ、著作権法とは、あくまでも著作権ビジネスの主人である産業資本家が自分たちの望む経済秩序を、著作権ビジネスの下僕たち(著作者・実演家・エンドユーザ)に強制するためのものである。

 ところが「歴史の狡知」が働いたのか、その目論見はすんなり実現しなかった。というのは、本来、共同体内部の法律でしかない著作権法は、そのシステムを表現する方法(=法律の目的の達成手段)として、目指す目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)に相応しい単純明快な手段を取ればよいのに、ライバルに文句を言わせない大義名分に思いを致すうちに、ついに、本来は下僕にすぎない者(=著作者・クリエーター)を著作権法の主人であるかのように祭り上げる、欺瞞的な紛らわしい手段を採用してしまった。
 それが次の著作権法の起源に関する歴史的な事実。ここで「下僕を主人のように扱う」欺瞞的なアイデアを採用したため(1710年アン法)、その後の、ギルド制度や封建的特権を廃止したアメリカやフランスの市民革命でも、著作権法は廃止されなかった(著作権法がもし、ギルド制度の出版業者をストレートに保護するとなっていたら、市民革命の中で廃止された筈である)。その結果、本音と建前を使い分けて生き延びた著作権法は以後「幻想と紛争と笑いの森」と言われてもしょうがない位、建前(著作者主権)と本音(企業独裁)が錯綜した欺瞞的な法律の道を歩むことになった。





A.当初の【独占状態】の大義名分
グーテンベルクの印刷術の発明以後、出版ビジネスの主役だった出版業者は、最初、自分たちの独占的な出版活動を正当化するために、国王より印刷・出版の独占を保障される出版特権という制度を活用。
        

B.【独占状態】に対する抗争の勃発
然るに、その後、こうした特権を享受する既存の出版業者に対し、これを持たない後発の出版業者たちから「何ゆえ彼らだけがこうした既得権を享受できるのか?」という異議が出され、両者の間に抗争が生ずるに至った。
        
C.【独占状態】の新たな大義名分の獲得
その結果、出版の独占を正当化する根拠として、これまでの国王から与えられる出版特権に代わって、新たなアイデアの創出を迫られた。そこで彼らが苦心の末捻り出したのが→著作者から著作権(当時は精神的所有権と言った)を譲り受けているからだという説明。

すなわち著作権制度とは、もともとコンテンツ(作品)を大量生産(複製)して一般ユーザーに提供して商売をする出版業者のために作られたもの。彼ら出版業者の独占的な経済活動を保障するために、いわば賭場荒しを取り締まる大義名分としてひねり出されたもの(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」参照)。
 今日まで、この本質は変わっていない。

2、現代の著作権法の本質とその欺瞞性
著作権法は500年前からこの起源をずっと踏襲している。確かに、この起源は近世のものであり、歴史はフランス革命などの市民革命を経て近代社会に移行したが、にもかかわらず、この点については不変だった。つまり、一貫して次の方程式の中にあった。
「著作権制度­=コンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供する産業資本家Xの独占的な経済活動Yを保障するために、それを正当化する大義名分

 この方程式のXとYの中に、当初は、近世のギルド的な業者(印刷業者)と活版印刷術による出版産業が代入されたが、市民革命のあと登場した複製技術に関する新しいテクノロジーのおかげで、Xの中にレコード会社、映画会社、テレビ局という著作権ビジネスの企業が、Yの中に音楽産業、映画産業、放送産業が次々と代入されただけで、この方程式自体は不変のままだった。

ところで、封建制度と決別し、個人の自由・人権を宣言した市民革命後も廃止されず生き延びた著作権法は、人権宣言にならって、表向きは「主役は著作者、目的は著作者個人の権利保護」というスローガンを標榜することになった[1]
しかし、著作権法は、その表向きのうつくしいスローガンとは裏腹に、現実は「主役は著作権ビジネスの企業、目的はこうした企業がスムーズに経営を実施できるための適正な産業経済秩序の維持」が本質であり、その本質がぬけぬけとのさばっており、両者の間には超え難い亀裂がある。その意味で、著作権法は、坂口安吾が指摘した「通俗作家荷風」に似ている――著作権法は「クリエーター・アーティストとは如何なるものか、クリエーター・アーティストは何を求め何を愛すか、そういう誠実な思考に身を捧げたことは一度もない。」だから、法律の中でも「最も不誠実な法律」である。そして、荷風と同様「著作権法のあらゆる条文において、この根本的な欠陥を見出すことができる。」それゆえ、著作権法とは、本来の主人公であるクリエーター・アーティストを500年にもわたって差別と支配と貧困の隷属状態に置いてきた「法律のアフガン」である、と。

、現在の日本の著作権法
 次の8章から構成。
第1章、総則。著作権法の目的の宣言(1条)と著作権法に登場する用語の定義規定などを置いている(1~9条)。
第2章、著作者の権利。権利の客体である著作物と権利の主体である著作者と権利そのものである著作権についての規定(10~78条)。
第3章、出版権。出版社に出版物の独占的権利を認めた出版権という制度についての規定(79~88条)。
第4章、著作隣接権。著作物の創作ではないけれど、それに準ずるような行為を行なう者たちの権利として著作隣接権を認め、その主体となる実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者についての規定(89~104条)。
第5章、私的録音録画補償金。デジタル方式による録音録画機器・記録媒体を用いた私的複製について認められた私的録音録画補償金制度についての規定(104の2~104の10条)。
第6章、紛争処理。著作権などに関する紛争の斡旋についての規定(105~111条)。
第7章、権利侵害。著作権などの権利侵害者に対して差止や損害賠償などの民事上の救済を求めることができ、それについての規定(112~118条)。
第8章、罰則。著作権などの権利侵害者に対して罰則が課せられる規定(119~124条)。


 次に、実質的に見て、著作権法とは、次のカラクリを持っている。
 著作権法の起源で示した通り、著作権法の目的とそれを具体化する手段(=法律構成)とが完全に分裂した法律であること。つまり、本来、著作権ビジネスの主人である産業資本家の目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)をストレートに法律構成としても表現すれば単純明快だったのに、それをやらず、著作物の生産段階において、現実には単なる下僕にすぎない著作者をあたかも著作権法の主人公のように(=著作物を創作した著作者に権利が発生するという)祭り上げてしまうという法律構成を採用してしまった。

 そこで、この転倒した関係を元に戻すため、企業の側からの反動的な改正が実施。
つまり現実には単なる下僕にすぎない著作者を法律上もあくまでも下僕にとどまらせるために、著作物の流通段階(=著作物を利用する契約のレベル)において、恥も外聞も顧みず、産業資本家に徹底的に有利な制度を登場させた。これが、単に「契約自由の原則」という名の弱肉強食の採用にとどまらず、一般私法では凡そあり得ないような映画製作者の権利(29条)やワンチャンス主義(91条参照)といった強者の強欲と評されてもしょうがない強きを助け、弱きを挫く制度が導入された。

 さらに、その転倒した不利な関係を少しでも挽回するために、なお著作物の生産段階においても、産業資本家たちは、自らが著作権の主人公として登場する必要性を痛感した。しかし時既に遅しで、主人公の著作者の座はクリエーターによってふさがれており(これに対する産業資本家たちの抵抗が「法人著作」の導入)、かといって、著作者概念を「法人著作」以上に拡大してここに潜り込むわけにも行かず、そこで、苦肉の策として、弱腰の実演家の尻馬に乗っかって、著作隣接権者の一員として、準主役の地位を無理矢理獲得することで一矢報いた。それが既に出版権(79~88条)という独占権を認められていた出版界と映画製作者の権利(29条)といった強欲の権利を持っていた映画界以外の業界である音楽のレコード会社(レコード製作者[96~97条の3]。)、放送の放送局(放送事業者[98~100条]・有線放送事業者[100条の2~100条の4])たちが行なった強者の逆襲である。

 次に、著作権法が「共同体の掟」であることを端的に示すものとして、著作権法がこれまでもっぱら取締まりの対象にしてきたのが、共同体の秩序を踏みにじるアウトローたち、つまり不正コピーの製造販売を業とする海賊版業者たちだった。それは、著作権法が、不正コピーを取り締まるための複製権(21条。著作権法では、著作権に含まれる権利の種類の中で最初に登場する)を中心にして構成されてきたこと、また著作権等の侵害に対して民事罰のみならず刑事罰(119~124条)まで規定してあることからして明らか。

 このように見ていくと、ひとつの謎がまた明らかにされる。それは、これまで、著作権法では、著作物の「創作性」の中身について、ちっとも議論が深まらなかった原因だ――決して、法律家の「創作性」に対する無知・無関心に由来するものではない。それはもともと、複製権中心主義と刑事罰のシステムにおいては、「創作性」とは最低それがありさえすれば足りるのであって、それ以上「創作性」の中身など本質的にはどうでもいいこと。だからそれは、著作権法の本質に由来する制度的なこと。


4、日本著作権法の特色
2つある。
1つは、契約に関する条文がメチャクチャ貧しい。
2世紀前の、契約自由の原則[2]に委ねたフランス革命直後の近代私法のままのように見える。
それは、
(1)、他の国内法との対比:著作権法は一般私法(民法)の特別法だが、同じく特別法である、労働法、借地借家法、消費者契約法などの消費者保護の法と対比してみたとき、経済的強者の契約自由を制限し、もって経済的弱者の自由を確保しようとした近代私法の発展(それが後者)の姿とその差は歴然としている。
(2)、他国の著作権法との対比:ドイツの著作者契約法(2002年「著作者および実演家の契約的地位の強化に関する法律」)に比べてみても、その差は甚だしい。

もう1つは、契約自由の原則によってすでに十分有利な立場にいる経済的強者の地位をさらに強化する制度を導入(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)。
つまり、弱肉強食の世界(=契約自由の原則)をさらに進め、「弱きを挫き、強きを助ける」強者保護法になっている。これは、経済的弱者の保護の見地から契約自由の原則を修正してきた近代私法の発展と鮮やかに逆行。


5、著作権の契約に対する法的規制
 では、日本では、ドイツの著作者契約法のように、著作者・実演家を守るための、契約に対する法的規制はないのか。
   ↓
 ある。しかも、著作権法関連法ではないため、著作者がろくに知らない間に作られた。
 それが2004年4月に施行された改正下請法。
 つまり、著作権法の立法担当する文化庁が著作者の契約面での保護に少しも手をつけないので、経済産業省と公正取引委員会の関係者が危機感を抱き、対応したもの。

 その結果、名称は「著作者契約法」ではなく、「下請法」となってしまった(カッコ悪いと言う著作者がいるようだが、むしろこのほうが実態をリアルに反映している)。
下請法の詳細→公正取引委員会のHP ex. http://goo.gl/3CLJ3G

6、日本の著作権契約の実情
 著作者・実演家の権利が骨抜きにされ、彼らに信じがたいほど、不当に重い負担が課せられている。
 例: 著作者人格権の不行使の約束
    制作した著作物・実演から発生した全損害の補償の約束
 
7、著作権法の中の市民(生産者・労働者)VS
企業(著作権ビジネスの覇者)
顕著な対立として、次の3つがある。
(1)、法人著作(15条)
(2)、映画製作者の権利(29条)
(3)、ワンチャンス主義[3](91条2項)




[1] 1787年アメリカ憲法は1条8節8項に著作者について定めた。
[2] 契約を当事者の自治(自由)に委ね、国家が干渉してはならないという近代私法の大原則。
[3] 実演家はいったん映画に出演する許諾をしたら、以後、その映画で録音・録画された実演の二次利用について権利を主張できなくなること。

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